凪 3
文字数 4,513文字
「──…だが、このまま手を
座がそれぞれの思案に押し黙った中で、ジョスタンの異母弟アティリオが静かに言った。
ジョスタンはアティリオの顔に視線を遣る。アティリオの方は、今さら自明の理をクドクドと述べ立てることはせず、ただ小さく頷くだけである。
カルデラの地に出入する情報を吟味する立場の〝周到の人〟アティリオは、彼が苦心して構築しつつあった情報網が寸断され機能を失うことを恐れていた。
このままルーベン・ミケリーノが島嶼諸邦の港々を押さえ続け、手当たり次第にルージューの手下の者を〝消し〟続けるのであれば、確実に外から入ってくる情報が先細ってゆく。
ルージュー軍の軍略を預かる〝果断の人〟ジョスタンにも、それは
軍略とは、その時々において得られる情報を客観的に吟味することから始まる。──ということは、このまま〝目と耳〟を塞がれては、判断をするに当たって十分な〝傍証〟も〝反証〟も並べられなくなる。
不十分な情報の上に構築した軍略ほど危ういものはないし、要領を得なくなるものもない。
「…………」
だがジョスタンは、自らの〝果断の人〟の二つ名に似合わず、この現状に対する武威の行使には逡巡した。
それをすれば、マルティは
マルティのみならず『
そうなったとき、果たしてルージューはどれ程の年月を聖王朝との戦いに費やさねばならなくなるだろうか……。少なくとも数年で治まるとは、ジョスタンには思えなかった。
「このまま締め付けられた末の衰弱死を、受け入れられるか?」
まるで互いの二つ名を入れ替えたかのような物言いで、改めてアティリオが質す。
「戦って勝てるのも、〝
その言には四弟〝武断の人〟オスバルドも静かに頷き、早期開戦への同意を示した。
ジョスタンは反射的に座を見渡していた。
マルコを始め多くの者が目線を伏せた。……
「…………」 ジョスタンは再びアティリオに視線を戻した。「いま戦って──無論、俺は〝勝って〟みせるが…──その後の算段が付けられるのか?」
「いまであろうが後であろうが、先ずは〝勝って〟貰わねば算段など付けられぬ」
アティリオは
「──兄上こそ、
「…………」
それにはジョスタンも押し黙るより他なかった。
事態が悪化していく速度が速すぎる。こちらの都合ばかり並べ立てた所で、それを神々が拾ってくれる
未だ意見表明をしていない重鎮の1人、ライムンドの末弟レオ・マリアは、そんなジョスタンの隣に座り、2人の水掛け論とは少し違った観点からカルデラの現状を考察している。
調略に依るにせよ、戦って獲た勝利に依るにせよ、和議に持ち込むことを前提とするのであれば、その前後で〝裏の交渉事〟を仕切るのは彼であった。
その彼からしてみれば、カルデラの地に情報が入ってこない現状は勿論言うまでもないが、それと同様にこちらの側が〝伝えるべき情報〟を持ち出せない、ということの方が問題なのだった。すなわち、ここ〝西域で起こっていること〟を正しく
レオ・マリアは思案の顔を伏せた。
この事態は〝いま戦って勝つことで〟打開できるのか……、〝いまを堪えれば〟修復できるのか……。
この判断は難しい。
ただ、〝いまを堪える〟となった場合は、直近でのルージューの振舞いが問題となるのは明らかであった。
だが〝浮舟の砦〟が出現してしまえば、もうこのような人を喰った手は命取りとなる。
今さら兵を出すのであれば〝誠意〟を示さねばならないだろう。これまでのような不誠実が明るみとなれば、それが戦の口実となる。
こういったこれまでのルージューの振舞いを申し開いて西方長官府との関係を修復するのは
(やはり、開戦も已む無し、か……)
このような〝追い込まれて〟の開戦はレオ・マリアにとっても不本意なものであったが、
そういう中で、遂に棟梁ライムンドの静かな声がジョスタン・エウラリオを質した。
「
ジョスタンは父伯に向くと、慎重な面差しで肯いて返した。
ライムンドは深い息を吐くようにして頷いた。
「では、お前は引き続き軍を掌握せよ」
すわ開戦かと、座に緊張が奔った。それをライムンドは軽く片手を上げて制した。
「早まるな。我らルージューは当面タルデリの求めに応じカルデラの南に兵を出す。それはわし自ら率いよう」
「それでは、これまで通り表だっては恭順の意を示し、その裏で兵を養うので?」
年齢的に長老格のイサーク・ベネディートがそう質すと、ライムンドは失望の表情となったアティリオ、オスバルトらを見遣って言う。
「これまでのように、ただ
「──?」
怪訝なふうの一族の者共を見渡してライムンドは笑った。
それからジョスタンに訊く。
「我が
「…………」
ジョスタンはわずかに逡巡した後、肯いた。
「そして──」 次にライムンドはレオ・マリアに向いた。「我が
レオ・マリアも黙って肯いた。
ライムンドは静かに言継いだ。
「であれば……ルージューの採るべき道は、西方軍とマンドリーニの軍を
座の全員が息を飲んだ。
「そのために、先ずはタルデリの求めに応じ油断を誘う……と同時にルージューに非の無き事を示さねばならぬ。それにはわしがカルデラの南に出向くことが最善であろう」
ライムンドはそう言うと、座の一人一人に頷いてその顔を見据えた。
「そしてマンドリーニの軍を襲い、完勝してみせ、
皆が息を殺すようにライムンドを見ている。
「……それ程〝大きな戦〟を幾度も
棟梁として、ライムンドは主軍を任せる我が子に問うた。
「できるか? ジョスタン」
「…………」
ジョスタンはしっかと頷き自分の手を見ると、
「震えが……止まりませぬ」
そう言ってようやく笑ってみせた。武者震いである。
ライムンドも不敵に笑って頷いた。
「ふむ、それでよい。所詮、我ら西方の民はシラクイラに軽んじられている。彼らに我らと共栄する気がないのであれば、戦って生き残らねばならぬ。その戦うときが今、というだけのことよ」
ライムンド・ガセトの〝久しく見せなくなっていた〟覇気が甦り、いま軍議の場に溢れている。
座の一同にライムンドは向き直ると重々しい声音で言った。
「各々方…──方々の命、このライムンド・ガセトとマルティの家にお預け願いたい」
この場で〝否〟と言える者など居はしなかった。
ルージューは開戦を決したのだった。
その光景を見遣りつつ、レオ・マリアは思う…──。
それほど巧くタルデリとルーベン・ミケリーノの両名を欺くことができるであろうか。
2人ともが権謀渦巻くシラクイラで生きる権門の住人…──〝悪魔は悪魔を知る〟ではないが、同じ舞台で〝踊る立場〟のレオ・マリアは、そんな懸念を抱いた。
だが棟梁である兄伯が覚悟を決めたのである。
レオ・マリアもまた、この乾坤一擲の大博打に打って出る覚悟を決めた。
明くる宵の口…──。
ジョスタン・エウラリオの妻オリアンヌは、ルージュー城の〝二の丸の居館〟のサンルームの窓越しに、遠くを流れてゆく雲を見ていた。月の無い夜で、天には星明りだけだった。
ここ数日、彼女は体調を崩していたのだが、今宵はその理由を得て心身ともに穏やかさが戻っていた。
「気分はもういいのか?」
その声にオリアンヌは背後を振り見遣る。視線の先でジョスタンがこちらを見ていた。
オリアンヌは柔らかく笑って頷いてみせた。
「……病気ではありませんもの」
言って、側までジュスタンが歩み寄るのを待つ。
「そうなのか。大分体調が勝れない様子だったが……」
気遣うようにそう言ってジョスタンは妻の隣に立った。
オリアンヌは夫に身体を預けた。そうするとオリアンヌの頭は長身のジョスタンの肩口にすら届かない。
ジョスタンはそっと妻の腰に腕を回して華奢な身体を支えてやった。
2人はしばらくそうして窓の外を見遣っていた。やがてオリアンヌは静かに訊いた。
「皆さま方との会合では、どのようなことに?」
正直なところを言えば、オリアンヌに軍議のことなど解らない。だが自分はルージューの御曹司──〝果断の人〟ジョスタン・エウラリオの妻であるのだからと、訊いてみただけである。
そんな妻の似合わぬ〝気概〟に、当のジョスタンは曖昧に笑って言った。
「
その先にある遠謀のことを、ジョスタンは口にしなかった。
「そうですか……」
オリアンヌの方は安堵の声を上げ、頭の上の夫の顔を見上げた。
ジョスタンの目と目が合うと、オリアンヌは恥ずかしそうに一度目線を伏せた。
それから背伸びをするようにして夫の耳元を寄せると、小さく何事か囁く……。
「間違いないのか?」
勢い込むようにそう質す夫に、オリアンヌは小さく肯いた。
ルージュー辺境伯マルティ家の次男、ジョスタン・エウラリオの妻オリアンヌが初めての子を懐妊したのは、カルデラの地に戦雲が広がりつつある冬の始めであった。