嵐気 1
文字数 4,494文字
冬の太陽が昇る前の、未だ暗い
静寂の中で、東の空が明るさを増し始める。すると瘴の雲が蒼く輝き始める。
アロイジウスは、そんな故郷の冬景色を相変わらず美しいと思う。
やがて遠い稜線に陽が達しようという直前、一際に鮮やかな冬の朝焼けが現れた。
アロイジウスは、その朝の焼け方の赤さに表情を改める。
不吉と感じるべきだろうか……。
アロイジウスは、夜の明けようとするアンダイエの景色を見透かすようにした。
アロイジウスとアニョロらを乗せた飛空艇が仇敵ルーベン・ミケリーノの率いるマンドリーニの船団に4日程先駆けてアンダイエに到着出来たことは
艇は5日目が終わる頃アンダイエに辿り着いた。そして夜闇の中を島の北東崖に在る小さな
艇が固定されると、アニョロは単身、アンダイエに人を訪ねると言い置いて夜闇に消えている。後にはアロイジウスとルージューの3人、それに艇付きの
アロイジウスは、背後の気配に振り返った。
そこに、西方の煌びやかな鎧武者の出で立ちでクロエが立っていた。兜は付けてはいなかった。
不安気な
その表情に常の彼女の余裕がないのに、アロイジウスの乾いた心も動かされてしまったようだった。
「……アニョロは、心底貴女を大事に想ってる」
この場に居ないアニョロの弁護を買って出たようなアロイジウスに、クロエは優しい微笑みで応えた。
「知っています」
余りに自然な声音だったからか、アロイジウスは納得をして目線を下ろした。……と、
「──ですが、私も同じくらい〝そう想っている〟のを
クロエは淋し気な表情の中に少しだけ怒ったような色を滲ませる。それを直接見ずに気配で察したアロイジウスは、結局、気圧されたように目線を上げられなかった。
彼女の憤りは理解できる。が、それでも〝大切な人を危険から遠ざける〟ということには、議論の余地など見出すことのできないアロイジウスである。結局、会話を選ばずに黙って面を伏すことになった。
クロエの方も、そんなアロイジウスから視線を下ろした。
「アロイジウス……」
躊躇った末、
「アニタのこと……その…、言葉も……ありません」
そう切り出したものの、それ以上どう言継げばよいのかわからない、というふうにクロエの言葉が途切れる。
やがて口にしてしまったことを後悔するように、彼女は目線を伏して固まってしまった。
アニタのことについてはクロエは責任を感じている。ロルバッハ砦に送り出すのを奨めたのは自分だった。あの時、カプレントの商館に留まっていれば、あのようなことにはならなかったのだ……。
「ごめんなさい……」
どうにかクロエは、最後にそれだけ言った。
アロイジウスは一度面を上げてクロエを見て、そんな彼女の感受性に改めて目を伏せた。
「貴女が謝ることじゃないでしょう……」
この場合、どんな言葉にもして欲しくないことを口にされるよりも、ずっと誠実さを感じる。
クロエにはアニタと親しくなる時間はなかったが、それでも
「──…でも……、ありがとう」
アロイジウスは、それほど苦労することなく〝そう言えた〟自分に微笑むことが出来た。一旦この場から退散することにして歩を進める。
その足をふと止めて、いま一度クロエを見遣る。アロイジウスは、優しい面持ちになってクロエに言った。
「貴女に〝もしも〟のことがあれば、いまの貴女のように、俺はアニョロにかける言葉を探すことになります…──」
クロエは静かに応えた。
「あの人に〝もしも〟のことがあれば、そのときには私にかける言葉を探すことになります」
アロイジウスは何も言えず、小さく頷いてその場から離れた。
それから数時間が経ち、正午になる前にアニョロは戻ってきた。
そのアニョロは人を連れていた。
抜け目の無さそうな面差しに竜騎の着ける胸甲という出で立ちの男は、アロイジウスも知っていた。西方軍に組み込まれた独立竜騎の1人で、名はジェンナーロ・バンデーラといった。
アティリオはバンデーラに引き合わされると、自ら〝マルティ〟の名を明し、アニョロの計画の一端を保証してみせた。バンデーラはアティリオらルージューの者に黙礼をし、アニョロとアロイジウスに肯いてその場を去った。
「ジェンナーロ・バンデーラ……信頼が置けようか?」
それを見送り、アティリオはアニョロに訊いた。アティリオの脇に侍す──兜を目深に被った──クロエの頭がわずかに動く。
アニョロは何も訝ることのない落ち着き払った声で応じた。
「ロターリオ男爵のご推薦だ。信じることにした」
それを確認してアティリオが口を開く。
「では、次は〝私の手番〟、ということだな?」
頷いて返したアニョロにアティリオは告げる。
「参ろうか」
艇に2人の手下を残し、一行はアンダイエの市中に向かった。
アニョロは一行を西方長官府首席文官オリンド・ドメニコーニの屋敷に案内した。昼下りの市中のこと、流石に西方風の出で立ちの者が歩けば
てっきりクロエの侍女を兼ねた女武者だろうと思っていた〝いま一人〟の鎧の従士は、マルティ家の末弟〝配慮の人〟アベル・サムエル・マルティであった……。
なるほど、未だ14歳のアベルは
そんなアベルの同道を許したマルティ家のジョスタンとは一体どのような人物なのだろうとアニョロは呆れた。ルージューは聖王朝との戦を始めたのである。そんな
だが考えようであるとも言えた。こうであれば〝
アニョロは腹を決めた。
そうやって腹を決めたアニョロは、アロイジウスと3人のマルティと共にドメニコーニの屋敷の応接室で、〝
屋敷の表向きを差配している〝見知った顔〟の執事は、カプレントの商館に居るはずのアニョロがいきなり押し掛けてきたことに仰天した様だったが、アニョロが黙って人差し指を口元に当てる仕草をし、ペナーティの
少し待たされて応接室の扉が開くと、西方長官府首席文官オリンド・ドメニコーニの、初老の男の落ち着いた顔が現れた。アニョロは直立して迎える。ドメニコーニはカプレントの商館を管掌しておりアニョロにとっては直接の上役でもある。
ドメニコーニは片手を上げてそれに応えると視線をアティリオへと遣って、それから小さく腰を折った。
この時点でアティリオの来訪は告げていなかったが、ドメニコーニはアティリオの顔を見知っており、この場に居るこの男がマルティの〝周到の人〟本人であることに気付いたのだ。アティリオも立ち上がり同じように腰を折った。
「──アンダイエ伯就任の折以来ですな。この手の用向きはレオ・マリア殿の範疇と思っておりましたが……」
慎重に言葉を選んだドメニコーニに、アティリオは微笑んでみせる。
「此度は私が送り出されました。若輩は戦地で学べと、そういうことなのでしょう」
ドメニコーニは取り敢えずという感じに頷いて返すと、アティリオとアニョロに着席するよう促し自らも腰を下ろした。
「それで……」 ドメニコーニの静かな口調がアニョロに質した。「〝負けた〟か?」
アニョロは肯いた。
「私は戦を直接観てはおりませんが、結果はルーベン・ミケリーノの報告の通りです──」
先にジェンナーロ・バンデーラを訪ねたとき、既にアンダイエへはルーベン・ミケリーノから戦の結果を報せる一報が届いていることは知っていた。細部は兎も角、タルデリが討たれ、〈ハウルセク〉を喪ったことをドメニコーニは承知している。
「詳細なればアロイジウス卿が──」
「──そのアロイジウスがルージューを手引きした故の敗戦……との話がある」
ドメニコーニは硬い表情でアロイジウスを一瞥しアニョロを質した。アロイジウスの若い顔が驚愕しその後に怒気で強張る。
アニョロは内心で舌打ちをした。この話はバンデーラからは聞いていない。
──ルーベンめ……正しい報告が届かぬと見て、自身に都合の良いことばかりを書き連ねて寄越したらしい。しかも〝人を見て〟その内容を書き分けている。
大方、アロイジウスの件は武官には伏せ、文官、それも高官にのみ吹き込んでいるのだろう。留守居の文官に西方軍の武官への不信感を醸成するのが狙いと見た。
アニョロは、憤りを抑える努力をするアロイジウスが口を開くよりも前に、落ち着いた声で応じた。
「ロルバッハとルーベン・ミケリーノとの間には色々な
語尾を〝断言〟とし、淡々と言う。どの道ルーベンの思惑などドメニコーニとて察しているのだ。敢えて口にしてみせたのは、その職責から来る責任感からであるとアニョロは理解している。おそらく、こちらが本題を切り出す前に現在のアンダイエの文武官の状勢をそれとなく伝えて来た、そんなところだろう。
「……では、ルーベン・ミケリーノの狂言であると?」
アニョロはドメニコーニを見返した。〝この件〟についてこれ以上付き合うつもりはなかった。問いを切上げに掛かる。
「ペナーティ首席武官の書状にはなんと?」
そう問い返される形となり、ドメニコーニは軽く息を吐いて応えた。
「アロイジウスのことは何も触れられてはいなかった」
「では、
ドメニコーニは視線を動かさずに何度か頷くと、
「要件を」
簡潔に問うてきたドメニコーニに、アティリオも簡潔に応じた。
「此度の戦の〝手打ち〟に、ルーベン・ミケリーノの首を頂きたい」
単刀直入とはこのことだった。
ドメニコーニは、じっと黙っている。