風鳴 2
文字数 4,579文字
ルージューと島嶼の諸邦とを結ぶ航路の中程……邦境と言ってよい空域にマンドリーニ軍が留まって3日。その船団の先頭に浮かぶ大船〈ミアガルマ〉の船上でルーベン・ミケリーノは戦況を伝える黒塗りの快速飛空艇との接触を持った。
「では、ルージューの騙し討ちにアンダイエ伯は討たれたのだな」
「はい」
居並ぶ諸将の前でことさらに芝居がかった物言いのルーベン・ミケリーノに、ローブ姿の女が応える。
「──すでに〈ハウルセク〉は焼け落ち、彼の地の砦をルージューの手勢が囲んでおります」
その言にマンドリーニの諸将は騒めいた。聖王朝の西方支配の象徴──〈ハウルセク〉の喪失がほぼ間違いのないものとして語られたのだ。
「〈ハウルセク〉が……」
「ルージューめ……いったいどれ程の兵を繰り出して来たのだ……」
歴代の西方長官を輩出してきたマンドリーニ公に連なる彼らには衝撃であった。
そんな中、ルーベン・ミケリーノだけが冷静なように見えた。
「アンダイエ伯を襲撃され、討たれたことから戦端が開かれたのだな?」
「……はい」
女は、まるで見ていたかのように頷いて返す。ルーベンは、さり気なさを装って続けた。
「解せんな……。如何にアンダイエ伯が兵に疎いとは言え〈ハウルセク〉に座乗していたのだろう? 西方軍とて
女は目深に被ったフードの中から答える。
「実は手引きをした者がいました」
「西方軍の内部に?」
表情を消してそう問うたルーベンに、女は静かに言う。
「はい……。ルージューの
「島嶼の独立竜騎?」
「幾人かが、ルージューの手下の口にした〝ロルバッハ〟の名を聞いております」
「では、ロルバッハが盟約を破りルージューに走った結果がコレ、という訳か」
ルーベンがそう締めると女は頷いた。
再び座が騒めいた。
「お待ちください」
そんな中で唯一人、慎重な声を上げた者がいた。バレリオ・ガスコ──、ロルバッハ砦で夫妻の骸を弔ったフルヴィオ・ガスコの弟である。
バレリオは報告者であるローブの女のフードの横顔に質した。
「──その話、
カルデラ南壁の戦場からルージューの囲みを破ってここまで辿り着いた者は一人もいないのだ。にも拘わらず、まるでその目で見てきたかのような言上を、自身、盟約に縛られる立場の独立竜騎である彼は暗に訝しんでみせた。
それに座中の独立竜騎が同調した。彼らは境遇を同じくする者同士、通じ合うものがある。先のロルバッハ砦の件もあった……。
そんな彼らに何ら動ぜず、女は口を開いた。
「わたくしの
ローブの女の声に、後ろに控えていた若者が進み出る。
「西方軍の飛空艇で〝風読み〟をしていました──
艇はルージューのグリフォン・ライダーに囲まれ散々に矢を射かけられ私を除き全滅しました……。私は艇を何とか戦場の外まで導き、こちらの高速艇に拾われたのです……」
血に汚れたままの衣服の若者の言葉には、アンダイエや島嶼の諸邦に広まる〝西方訛り〟があった。まだ恐怖に震えがちな声音から、嘘を言っているようには見えない。
バレリオは胡乱な目を向けはしたが最終的には引き下がった。それであらためてルーベン・ミケリーノが質した。
「ではルージューの手下がロルバッハの名を確かめると、アロイジウス・ロルバッハがグリフォンを通したのだな?」
風読みの若者が肯くとルーベン・ミケリーノは短く嘆息をした。それを白々しいと感じた者も居たかも知れない。
諸将が注目する中、やがてルーベンが口を開いた。
「聞いての通りだ。ルージューは謀叛した。
口調を抑えたルーベンがそう台詞を結び終えるよりも先に、若い士官から声が上がった。
「おのれルージューめ! 騙し討ちとは何という卑劣なっ」
「金の力に
座中が口々にルージューの行いを指弾し始める。
「地の利を
そうやって一頻り言わせた後、ルーベンは片手を上げて静粛とさせた。
「──水と兵糧はどの程度残っている?」
幕僚の中の主計管理の責任者が淀みなく答える。
「糧食は20日、水は15日分を切りました……。糧食はともかく、水の方はアンダイエまでも余裕があるとは言えない量です。島嶼に戻すなら今すぐにも
座にある諸将の大半に不満の表情が浮かんだ。が、それを口にする者が現れる前にルーベンは云った。
「であれば、いま戦う訳にはゆかぬな──」
「…………」
再び座中が騒めく前にルーベンは声を高めて言継ぐ。
「聖王朝が戦うのであれば勝たねばならぬ」
断言であった。それから、先に息巻いていた若手の士官の1人を向いて言い含める。
「地の利を恃む敵地に乗り込むには兵糧に余裕がない。わかるな? ……卿の言う通り〝正面から戦う〟のであれば負けるはずはないのだ。ここはいったんアンダイエに返して捲土重来を期す」
それで座が締まったのを確認し、ルーベン・ミケリーノは西の空の先──ルージューの山脈を見遣って言った。
「ルージューへの雪辱の想いは今日この場に残して行け。それは後日、俺が必ず晴らしてやる。……
この言葉でマンドリーニ軍の諸将はまとまり、ロルバッハの名は〝裏切者〟として記憶されることとなった。
ローブの女のフードが肯いたように動き、ルーベン・ミケリーノが秘かにほくそ笑んだ後、マンドリーニの軍船団は
だが長い戦いの序幕は、いまだ降りてはいない…──。
他方、アティリオらが辞して一夜の明けたカプレントのアンダイエ商館。
陽も昇りきらぬうちからルージューからの使者が門扉を叩いた。此度の使者のうちのマルティの貴人は〝果断の人〟ジョスタン・エウラリオだけである。
アニョロ・ヴェルガウソは門を開きホールへと招じ入れた。
陽が昇り空もだいぶ明るくなった頃、ジョスタンは
「俺だ。……入るぞ」
ジョスタンは自ら扉を開き、中に入った。
クロエは窓際の椅子に座っており、いま居住まいを正した所と見えた。
「──…眠れてないか?」
そう問うたジョスタンにクロエは力のない目を向けた。
その彼女の
「破約となった」
異母妹は小さく肯くと目線を落とした。
ジョスタンはその異母妹の側まで進むと、昔よくそうしたようにほど近い距離を置いて彼女の形の良い頭を見下ろすように立った。少し間を置いて、少しだけ優しい声になってジョスタンは続けた。
「今日、俺と共に此処を出てマルティの城に行く……」
クロエはやはり黙って肯いたきり、後は何ら反応を返さなかった。
少し待って、ジョスタンは重ねて質した。
「その後はどうする?」
「……しばらくは城で父上と母上の側に──」
口を噤んでいたクロエがようやく口を開いた。
「それから後は……神殿にでも入りましょうか?」
その声の中に微かに潜む〝投げ遣り〟な響きに自らを恥じ入るように嗤う異母妹に、ジョスタンは奥歯を噛み締めた。
アニョロ・ヴェルガウソと出会うまでの彼女の、自分への想いは知っていた。
妻に出来る出来ないは別として、この先もずっと人生を共にしていく存在と思っていた少女である。その彼女の背姿──細いうなじと肩の線…──が痛ましかった。気位の高さが先に立つ美しい異母妹の全身に自傷の翳が下りているのは何とも辛い……。
だが異母妹の
「
それに、ゆっくりと彼女が首を回した。少しだけその目に険が宿っている。
「……あの方は私との縁よりも自分の復讐を取ったのです…──いえ、肉親への情をです。それならもう、私には入り込む余地など……ないじゃない‼ ともに歩くことを望んでいないのだから……っ」
言い募るクロエの声の最後の方は、涙が滲んでいた。
ジョスタンはそれを、にべ無く突き放した。
「当たり前だ」
が、その声は優しい。
「妹を辱しめられた上に殺されたのだ。俺とて妻に子の出来る前に同じ憂き目となれば、オリアンヌをユレに戻し
クロエの瞳が揺れるが見て取れた。
「では、妻の気持ちはどうなるのです?」
「生きてさえいれば新たな縁を結ぶ男と出会うこともできよう。だが、殺された妹の無念は兄の自分が晴らしてやらねば……仮におまえがそれを望まずとも、俺はそれをせねば恨みが晴れん…──男ならそんなふうに考える」
我ながら〝勝手〟だと思うジョスタンの目を、クロエが真っ直ぐに見て言う。
「勝手なのですね」
ジョスタンは続けるしかなかった。
「そうだな。が、ルーベン・ミケリーノはシラクイラの権門だ。手を出せば確実に妻子にまで累は及ぼう」
そう言って頷くと、
「──それでも……」
そのクロエの少し怒ったふうな言い方を耳にして、ジョスタンは片方の口角を上げた。
そんな表情が声音に現れぬように、敢えてジョスタンは冷淡な言葉を継ぐ。
「──アニョロ・ヴェルガウソは全てを覚悟して仇を討とうと言うのだ。殊勝だな。見掛けによらず情に篤い。が、このままでは
クロエが息を吸ってそのまま言葉を失う気配が伝わってくる。
「……さて、もう一人、ヴェルガウソの妹の件ではルーベン・ミケリーノを赦せぬ男が身近に居る」
ジョスタンはようやく本題を口にした。
クロエは背後のジョスタンの言葉に耳を聳てた。
「──…
翼獣を操れ弓の扱える……賢く、出来れば知恵者を気取る上役を前にしても聞き分けが良いだけではない人物が良いのだが……」
ジョスタンはそれだけ言うと、後はあらためて帰り支度をするように言って部屋を出て行ってしまった。
その
着替え終えると部屋の荷はそのままに、化粧箱の中からマルティの家の紋章の入った護り刀を掴んで部屋を飛び出していった。