微風 4
文字数 4,608文字
アニョロが求婚をした午後の日の前日──。
アロイジウスはカプレントの商館に到着すると、商館長代理に、アンダイエの西方長官府での顛末を、アニタの婚姻話を含めて全て伝えていた。
話を聞き終えたアニョロは、アロイジウスを前に、彼らしくもなく大きな溜息と共に頭を抱えてしまった。相当に辟易とさせられたのだろうか、アニョロはアロイジウスの顔を窺い、それこそ〝単刀直入〟に、順を追うことをせずに質した。
「アニタのこと、諦められるか?」
さすがに即答の出来ないアロイジウスに、畳み込むようにアニョロは言う。
「妹の気持ちはわかっているはずだ」
アロイジウスは目線を伏せて逸らせはしたものの、慎重な声音になって言った。
「──この様な形で諦める、ということはないです……」
「そうか……」
そんな弟分に、アニョロは微苦笑を浮かべ一息を吐いた。頭にやった手をガシガシとしながら漏らした。
「何か
彼にとっては、上司の無理難題に使うよりも妹の幸せの方に知恵を回すことの方が、より優先度の高い事柄であるらしかった。
その翌日の午後、陽も暮れかけてそろそろ日付が変わろう(※グウィディルンの世界では一日の始まりは日没である)という時刻になって、アロイジウスはアニタ共々アニョロに呼び出され、
シラクイラ──とりわけ〝中央軍の領袖〟たるプレシナ家の動向を探るに当り、先ずは元近習衆筆頭で次期当主のアレシオ・リーノの信任もいまだ篤いエリベルトを頼れと、そういう指示であった。
エリベルトの妻ユリアはアロイジウスの実姉であったし、ヴェルガウソ家との繋がりも深い。アロイジウスも、アニョロの指示がなくとも最初にそう考えていた。妥当な判断である。
それに加えて、アニタには〝アニョロの婚礼の仕度に必要な物を揃えに行く〟という名目で、カルデラの地を離れることを命じた。タルデリからの手紙は未だ商館に届いてはいなかったので、アニタも〝自分とアティリオとの婚礼〟の話は知る由もなく、夜のうちに出立するのであれば言い訳が立つ、という論法なのであった。
ただ、この指示──というより〝アニョロの婚礼〟という話に、アロイジウスもアニタも目を丸くさせられた。
妹の婚儀の話に頭を悩ませていたアニョロの〝昨日の今日〟に、アロイジウスはいったいどういうことかと目線で質すと、アニョロはマルティ家のクロエに求婚したとさらりと告げた。
マルティ家のクロエ……‼
確かに結末だけを判断するならば〝望み得る最良〟の結果と言える訳だが、いったい何をどうやればそこに辿り着けたのか……。全く見当のつかないアロイジウスは、ただアニョロを見返すばかりだった。いったいどんな魔法を使ったというのだろう……。
アニタの方は、いきなり兄は結婚すると告げられ、その相手がマルティ3姉妹の長姉クロエであるということに二重の驚きで兄を見た。彼女は、自らの与り知らぬところで進んでいた〝自分とアティリオとの政略結婚の話〟がこの縁を手繰り寄せたことなど知らず、唯々驚いている。
寝耳に水とばかりの顔を向ける2人を前に、アニョロは馴れ初めなどといったことを語る様なことはせず、こう言った。
「惚れられて惚れ……あ、いや……、惚れて、惚れられた。──それだけだ」
憑き物の落ちた
…──それが10日前のことである。
その後、アロイジウスとアニタは、西のカルデラの表玄関たるカプレントからシラクイラへと渡る航路の〝船上の人〟となっていた。二人は知らないでいたが、コレオーニ商館のクロエの手配であった。
東の空に朝の陽光が昇ると、きらきらと輝く青い瘴の海原を遠目に、アロイジウスは油断のない目線を地平線に沿って配っていた。
空賊の襲撃があるとすれば、朝方のこの時間帯は殊に警戒すべき頃合いである。船上の人となったアロイジウスは客であることを忘れ、常の習慣から船の周辺に鋭い視線を走らせていた。
その隣には、そんなアロイジウスに合わせるようにアニタが目線を遣っている。
彼女も女だてらに弓を取れば中々の技前を披露するが、実地の軍役の経験がない。その分、
それでも隣に立つ幼馴染の真似をして、あちらへこちらへと目を遣っていると、その目がふと止まった。
視線の先には、朝陽を背に小振りな浮き島が幾つか浮いていた。──島嶼諸邦の島々である。
「アーロイ……ロルバッハ砦には、ご挨拶に寄らなくて良かったの?」
そう訊いたアニタは、瘴の煌めきに浮かんだ島々のシルエットの中にロルバッハ砦を見分けられはしないかと目を凝らしている。カプレントの商館長代理に任命された兄のアニョロに付き従いアンダイエを経由して西のカルデラの地に赴任した際に一度、島嶼諸邦の島々をその目に見てはいたのだが、ロルバッハの砦がどれであるかは結局判りはしなかった。
今回の旅で、ひょっとしたらアロイジウスに、養父のファリエロと養母ノルマに紹介して貰えるかも知れないと期待していたアニタであったが、アロイジウスは時間を優先しシラクイラへの直行便を選択していた。
「砦の
そう言って油断のない目線を地平線へと向ける幼馴染の生真面目な横顔に、アニタはそっと胸の中で満足していた。──自分の幼馴染みは、どうやら責務に忠実な人間に育ったらしい。その凛々しさの増した横顔が何だか誇らしく思えてくると、知らず頬が緩んでいた。
と、そんなアロイジウスに背後から話しかける者があった。
「そのように働かれたところで報酬を払うことはできませぬ」
まだ若い女の声である。
アロイジウスとアニタが顔を向けると、女は隣まで進み出てきて頭から被っていた
女は静かに言った。
「お二人とも、下でゆるりと
「習慣が抜けないだけで……お気遣いは無用です」
アロイジウスは応えると再び目線を周囲に遣った。実際、半月ほど前までアンダイエの営地で軍務にあり、2日おきに見張りに就いていたし、更にその1月前には船上にあって空賊に備えていたのだ。
風読みの女は、苦笑気味の微笑を浮かべると言った。
「この季節、シラクイラの西岸オーヴィアまでは概ね20日で渡れますが、この分ではもう少し掛かるかも知れません…──」
女は目を瞑って
少しの間動きを止めた風読みは、やがて小さく息を吐くと落胆の表情を浮かべた。それから船尾で船を操る船頭に飛空船乗りの間で通じる
アロイジウスも、そのゼスチュアの意味する所は承知していた。
「やはり良い風は捉えられそうにないですか」
そう問うと、風読みの女は肩を竦めて肯定した。
「いけませんね……やはり1日2日、到着が遅れそうです」
アロイジウスも肯いて返した。
飛空船の旅とはこんなものである。
風の影響はかつての海洋を走る帆船以上に受け、ことさらに帆を張らずとも絶えず吹く風に流される、ということもざらである。
さらには、なまじ勢いのある風を掴んでしまえば必要以上に流されて遠回りを強いられることもしばしばで、風読みの技量が大きくものを言う。彼らの責任は重大であった。
いま、この風読みの女は、船を推す西風に安易に乗ることをせず、その先の南西の風の流れを手繰ろうと慎重な判断を下した。
彼女のその判断は妥当だろうと、アロイジウスは納得することにする。
風読みの女は2人に一礼すると
その風読みの女の横顔を見送って、アニタは口許を尖らせるふうにした。2人の会話に入っていけなかったことが不満らしい。
アニタのその表情に、アロイジウスが口を開いた。
「──風を読むのは彼らの役目だし、飛空船で軍務に就けば彼らの使う
「──…そうよね。キレイな
「え?」
「アーロイは、ああいう澄まし貌の〝大人の
明らかに拗ねたふうなアニタに、アロイジウスは思わず声を上げた。
「ちょっ…、なんでそうなるんだ⁉」
「…………」
そのアロイジウスを一瞥して、アニタは
「クロエさまは、それはおキレイでしたけれど、兄さまに嫁ぐことになって残念ねー」
「──…っ‼」
クロエの名が出てきたことで、また
「だからそれはっ……前の夜にカルデラの南壁で彼女の姿を見て…──それで気を取られただけで……
ジョスタン・マルティの婚礼の夜の舞踏会で、直前に姿を現したクロエの姿に動揺してしまって上手く踊ることが出来なかったのは事実だが、それをこうもいつまでも根に持たれるとは、アロイジウスは思わなかった。
一方でアニタも、自分でも驚くほどにマルティ家のクロエを意識していることに戸惑っている。
生まれ年を同じくする、辺境の家に生れながら自分よりもずっと洗練された女性に、一緒に育った
その上、そのクロエが兄の妻になるという事実を、
2人が商館の仕事で頻繁に顔を合わしていたことは知っていたが、そのような雰囲気は無かった(……少なくともアニタには感じられなかった)し、そのような話の背景なり経緯なりも聞いていないまま館を追い出されたのだ。いっそ政略ならば納得もいったが、
……ともかく、彼女にとってクロエは身近な男性の2人ともを魅了する〝魔性の女〟だった。そんな女が自分の
このようなとき無意識に甘える先であったアロイジウスがこの場合は渦中の人であったのだ。そんな初めての経験に、アニタは自分の感情を上手く処理できないでいた。
アニタは、声の上擦ったアロイジウスに一つ息を吐いてみせ、
「兄さまも兄さまならアーロイもアーロイね……」
くるりと踵を返した。
「朝食にしましょう」
険の残った声でそう言い残し、先に立って歩き出す。
「…………」
その背を見遣ったアロイジウスは、こういうときには〝いったいどうすればいいのか〟と、途方にくれるのであった……。