嵐気 2
文字数 5,095文字
アティリオはそれ以上は何も言わず、真っ直ぐにドメニコーニを見遣り返答を促している。
探る様な互いの視線の中、時間が静かに流れてゆく。
やがてドメニコーニは口を開いた。
「〝聖王朝の代理人〟たる西方長官を騙し討った挙句に、義勇の軍を率いるマンドリーニ家の
慎重な声音が質す。それにアティリオの方は頷いて返した。
黙ったままのルージューの全権に、ドメニコーニはわずかに不快気な表情を
「
ドメニコーニは笑いもせず、怒気も見せず、ただ淡々と云った。この辺り、聖王朝を支える
「いまの私は文官の立場だが、そのくらいの状況の理解はできる」
ドメニコーニはアティリオに小首を傾げるようにして言葉を結んだ。
「それで……」 アティリオの方は、むしろ尊大にも採れる
ドメニコーニの片方の眉が撥ね上がるように動いた。
アティリオは続ける。
「云われるまでもなく西方軍は健在でシラクイラにはなお兵が有る。この先戦おうと思えば戦える……。が、我がルージューも
アティリオはドメニコーニを覗き込むように訊いた。
「さて……このまま戦禍が拡がればどうなります?」
「…………」
再びドメニコーニの方が黙った。
アティリオが外連を利かせた声を表情で続ける。
「アンダイエは工房都市……主に手掛けるのは飛行石の精錬・加工。戦となれば当然、カルデラの飛行石は入らなくなる。折角の技術も設備も〝持ち腐れ〟……。アンダイエが廃れれば西方は荒れましょうが、その責は一体誰が負わされることになりましょうな?」
武人は戦の結果を問われるが、その戦が〝不首尾〟となればそれで生じる不都合の責を文官が負わされるというのが聖王朝の
ドメニコーニはしばし黙った後、静かに訊いた。
「ルーベン・ミケリーノの首一つで、そのような未来を回避できると?」
ドメニコーニのその台詞を聞いてアティリオの口許が小さく
そのアティリオは、
「そもそも
と、そこまで云うと声の調子を変えた。
「──後はルーベン・ミケリーノが除かれれば、西方はこれまで通りシラクイラの権威の許に服すことができます。
その際には、ドメニコーニ殿のような〝先を見通せ、話の分かる御方〟がアンダイエを差配しておられることが望ましい…──と、そのように我らとしても考えている次第……」
首席文官に微笑んで見せた。
ルーベン・ミケリーノが除かれればルージューは再び聖王朝に服すことに異存はない。その際の交渉の窓口にはドメニコーニ殿を考えている、との秋波である。
黙っているドメニコーニにアティリオは続ける。
「──なに、ルーベン・ミケリーノを捕らえて引き渡せ、などとは言っておりません……。あの男を討つ我らの動きを見逃し、事が成れば、速やかに事態を収めるべく動いて頂きたい」
「…………」 ドメニコーニは慎重な面差しのまま訊く。「即答が必要か?」
「ルーベン・ミケリーノがアンダイエに着くまで後4日程…──西方を大戦から避けるのは〝いま〟です」
そう微笑んでアティリオは応じた。ドメニコーニは目を閉じて息を吸う。
それから再び目を開けたドメニコーニは静かに告げた。
「いいでしょう。私はルーベン・ミケリーノのことは与り知らぬ身。戦の理由が無くなるのであればそれがよい」
アティリオとアニョロはそれに肯くと、「では…──」と、アロイジウスと2人の従士──クロエとアベル──を従え、席を立った。
アニョロら一行は、ドメニコーニの屋敷を、表でなく裏の路地に面した戸口から辞した。
随分と静かだった。
開戦とその後の顛末の一報は長官府ならびに西方軍に届いているが、市中はその限りでないのか普段と別段変わらぬ午後の営みにある。表通りを1本
アンダイエは9年前の戦役の痛手から未だ立ち直ってはいなかった。
目抜き通りからは人目につかない路地をしばらく歩いてから、アニョロはアティリオに訊くとはなしに言う。
「──あんたに〝全権〟が任されていたとは初耳だった……」
「はて……私はそう言ったか?」
何喰わぬ
「ルーベン・ミケリーノを除くに於いてのみ、
それを最初、怪訝な表情でアティリオのことを見返していたアニョロだったが、やがて呆れ顔で何か言葉を探そうとして、結局、何も見つからずに口を閉ざすこととなった。
そんなアニョロに、今度は話題を転じてアティリオが訊いた。
「ドメニコーニはどう動くと見る?」
「そうだな……ドメニコーニ殿はあれでなかなか野心家だ」 アニョロは一息を吐き、「──確かにアレは効果的な〝手〟だった……と思う」
と顎にこぶしを充てて言った。そんなアニョロにアティリオは薄く嗤う。
「では、布石は成ったな」
「ああ…──」
アニョロは表情を改め肯いた。
「──後は我らの首尾如何だ。ルーベンを討つことさえ出来れば、後はドメニコーニ殿が巧く捌いてくれようさ……」
アニョロの乾いた声を耳して、数歩後ろを付いて歩くクロエの
先ほどアティリオは、
──これでは〝命の切売り〟だわ……。
クロエは内心の不安を押隠しつつ、先を歩く2人の背を見遣った。
その彼女には、それが同道する
ただルーベン・ミケリーノを討てばよいのであれば
だがそれではクロエの身を確実に守ることはできない。
ルーベン・ミケリーノを斃した後、アンダイエとルージューとが〝互いの弓を下ろす〟段取りを示し、その交渉の窓口であると認識させることで事後の安全を得る、というのがアニョロとアティリオの描く布石だった。そのための〝手札〟をオリンド・ドメニコーニに対して切って見せたのだ。
──…が、いまのクロエは、そこまで思い至ることはできない。
「アーロイ!」
路地を行く一行は、その黄色い声に足を止めた。……女の声である。
最後尾を歩いていた当のアロイジウスは、振り見遣った視界の先に小柄な少女の人影を見た。
「ソニア……?」
知った顔の少女だった。未だ十代も半ばの面差しには子供らしさが残っていた。アロイジウスのアンダイエでの下宿先の娘でソニアといった。
少女は駆け寄る素振りを見せたが、アロイジウスの周囲に見知った顔のないのに逡巡し、歩を止めた。
「……アロイジウス」
アニョロが顰めた声と共に目配せを寄こす。アロイジウスはそれに頷いて返すと、立ち止って様子を見ているソニアの方へと歩みを向けた。アニョロは歩みを再開し、後を追ってルージューの者が続いた。そして一行は路地を折れて消えた。
「アーロイ…──」
そんなアニョロらを目で追っていたソニアという名の少女は、一行が路地に消えると、
「……いまの人達は?」
と、怪訝にアロイジウスを見上げて訊いた。
「うん……」 アロイジウスは曖昧に応える。「──…彼らは、カルデラを経由してきた〝北からの商人〟さ。彼らの船に乗せてもらって来たんだ」
咄嗟にそう言っていた。
「ふぅん」
ソニアの方はもう一度だけ路地の奥に目線を遣ったが、あとはもうそれ以上詮索することなく、改めてアロイジウスを見上げて笑顔になった。そして…──、
「ね、いつ帰ってきたの? この後は? 部屋には戻るんでしょ? 何で連絡をくれないの。アンダイエにはいつまで? 夕食は? ……そうだ! アニタさま! アニタさまとのその後はどうなの?」
〝いつも通り〟の畳みかけるような矢継早の言葉の奔流……。気圧されたアロイジウスは少し困った
秘かに恐れていた通り……、気拙いことになった、とアロイジウスは思った……。
それを押し隠すのに決して少なくない努力をして彼女に笑って返す。
出来ればこれでこの場を立ち去りたかった。このまま彼女が質して来るであろう言が恐ろしかった……。
「──ウテロ兄さまは一緒じゃないのよね……何か言付かってはないかしら? ね? どう?」
嗚呼──、やはりそれを訊かれることになるか……。
アロイジウスは、期待の目で見上げるソニアから、何とか目を逸らすのがやっとだった。
アニタの奇禍を知らぬソニアの無知な残酷さは堪えることが出来た。が、全てを知っている自分が、ソニアに同じことをせねばならない…──。
今年数えで15歳のソニアには、
年長で面倒見のよい男であったエレウテリオは、アロイジウスを弟のように可愛がってくれた。ソニアの屋敷を下宿先にと紹介してくれたのも
そのエレウテリオの顔は、〝第1次カルデラ南壁の戦い〟の後の〝浮舟の砦〟になかった。あの戦いで還ってこなかった竜騎は14騎…──エレウテリオはその1人だった。
「どうしたの、アーロイ? ……何だか顔色が良くないよ?」
言葉を探すアロイジウスを心配そうな表情でソニアが見上げていた。
アロイジウスは笑みを浮かべ直す。結局、こう言っていた。
「──ボニファーツィオ卿の使いなんだ……。しばらくアンダイエに留まるけれど、先の人たちを案内しなくちゃいけない。彼らと船宿に同宿するから部屋には戻らないよ」
それを聞くソニアは残念そうな
「ウテロは……」
アロイジウスは嘘を言った。
「カルデラでの観兵式の準備で、まだ現地に居るよ…──」 ソニアの表情に負けて付け加える。「〝砦には何もないけれど、帰路にはカプレントを回れるからソニアに何か買っていく〟と言ってた……」
付け加えたことの方は嘘じゃない……。カプレントで上等の服を扱う店を紹介してくれと頼まれ、こっそりアニタに手紙で訊いたのだ。
「そか……」
ソニアはその言葉に満足すると、もう行くからと片手を上げたアロイジウスを笑顔で見送った。──彼女はエレウテリオの許嫁だった。
アロイジウスは、背を向けると足を速めてその場から離れた。
同じ日の午後も下って冬の陽が翳る頃──。
アンダイエの3つの主要な港の
ローブ姿の女がアンダイエに降り立ったとき、強い風が桟橋を吹き抜けた。
目深に被ったフードが孕んだ風に跳んで、長い髪が
冷たい風が、島を渡っていった……。