その3 渡辺聖羅

文字数 1,183文字

 放課後。僕は帰り支度をしている星羅に声をかけていた。

「渡辺さん」
「何?」
「渡辺さんは今日、暇?」
「えっ!」

 星羅は動揺していた。目は大きく見開かれ、口も軽く開いたまま閉じられないでいる。バッグを持った手は止まり、息も荒くなっているような気がした。

「矢野君。急にどうしたの。いつもは一人で帰るのに」
「おかしいかな」
「おかしくはないよ。ただ驚いただけ。だって矢野君の方から声をかけて来るなんて初めてだし、暇? なんて訊かれるのも初めてだから」
「そうか。そんなに意外だったのか」

 僕が不満そうに溜息を漏らすと、彼女は焦っていた。

「ち、違うの。嬉しいのよ。矢野君から誘ってもらえたのが嬉しかったのよ。誤解しないで」
「うん。別に怒っちゃいないから。それで、今日は暇なの?」
「大丈夫よ。どこかに行くの?」
「うん。僕の家に来ない?」
「えっ!」

 こいつは一々何を驚いているのだ。これだから女子と話をするのは嫌なんだ。つまらないことで狂喜乱舞するわ、大した話でもないのにポロポロ泣いたりするわ。本当に扱いにくい生き物だ。

 星羅は疑いの目で僕を見て言った。

「本当に行ってもいいの?」
「いいよ。今日は親父もお袋も帰りは遅いから、大丈夫さ」
「二人きりってことかな……」
「そうだよ」

 僕達が話している横を健斗が通り過ぎて行った。その時僕に声をかけてくれた。

「明日またな」
「うん。明日またな」

 健斗の目が笑っていたように見えた。その後姿を見送りながら彼女が訊いた。

「もう、そんなに親しくなったの?」
「別に、あいつの方から話しかけて来たから返しただけさ」
「そうなんだ」

 星羅はまだ落ち着かないのか、ハンカチで頻りと手を拭いていた。

「あのさ、矢野君」
「何?」
「矢野君の家で何をするの?」

 僕は正直困った。健斗にセックスは早い方がいいと言われたからそうしようと思った訳ではないが、何となく負けてはいられないなんて気持ちはあった。
 だからと言って誰彼構わず、「実は今日、君とセックスしようと思って」などと真正面から言えるものではない。もっと遊んでいそうな、星羅以外の女子の方が良かったのだろうか。

 しかし考えてみるとこんな話が出来そうな相手は星羅しか浮かばない。僕の友人関係と言えば良いのか、人脈と言えば良いのか希薄の極みだ。

「それは、家に着いてから教えてあげるよ」

 僕は今初めて、自分が『適当な言い訳』の出来る人間だと分かった。


 家までの途中、星羅は何も話さなかった。いつもはズケズケと話しかけて来るのに、男と二人きりになるとこうなるのは、元々の彼女の性格だろうか。しかし、今はそんな事などどうでもいい。出来れば明日にでも健斗に言ってやりたいのだ。

『僕も済ませた』

 繰り返して心の中で言うが、何とも心地よい響きだ。僕も健斗のようにサラッと口にしたいものだ。これこそ男子の本懐(ほんかい)と言うべき言葉だと思う。
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