その39 君を食べてもいい?

文字数 1,860文字

 当然、僕は尋ねていた。

「食べたくなったって、どういう事だよ」

 健斗は口を拭いた血染めのハンカチを、汚いものでも摘まむように指二本で持って、ごみ箱に捨てていた。

「昨日、石野さんを送って行った時、休んで行ってとか言われて部屋に上ったんだ」
「へぇ、あの一見真面目そうな石野さんが? 大胆だねぇ」
「それで部屋に上って、何も話す事が無くて二人で時間を過ごしていた時に、つい訊いてしまったんだ」
「何を?」
「石野さんを食べてもいいかなって」

 いくら話題が無いと言ってもそれは無いと思うのだが、健斗は至って真面目だった。

「はぁ? 訊いたのか。石野さんはびっくりしただろうな」
「うん。(まばた)きをしない人の顔ってものを、僕は初めて見た」

 それはそうだろうと思う。いきなり「あなたを食べてもいいか」なんて、そんな会話はこの国では存在しない。しかし、実に興味深い話ではある。

 昨日健斗は僕に美紀の脚がおいしそうだと言ったが、あれはあながち冗談ではなかったと言うことになる。そうなると、以前に腕を切ろうかと言ったのも嘘や冗談じゃなかったということになる。健斗はとんでもないサディストなのかもしれない。

「それで?」
「そうしたら石野さんが『いいよ』なんて言うからさ」

 言葉は出なかった。質問をする方もする方だが、それに真面目に答える方も答える方である。この二人は正常な頭なのか疑ってしまう。しかし、彼女がそう答えたのなら、この二人の間では正常な会話なのだろう。

「彼女がそんな事を言うなんて、信じられないな」
「でも確かに言ったんだ。そして食べるならここにして欲しいなんて言うんだ」

 彼はそう言って自分の太腿の内側を指差した。

「どうしてそこなんだろう」
「一番自信があるんだってさ」
「へぇ、どんな自信なんだろう」
「さぁ、僕にも分からない。ただ石野さんは女の子同士で着替えたりする時に、他人の太腿をつい見てしまうらしいよ」
「フェチなのかな」
「さぁ」

 僕達は一体何を話しているんだろう。頭がクラクラしそうだった。

「それで食べたのか」
「うん」
「どうだった?」

 健斗は残念そうに肩を落とし、すぐ傍にあった椅子にドサリと腰を下して言った。

「矢野君。人間はね。やっぱり肉食動物じゃないね」
「どういうこと?」
「噛み切れないんだ」
「そりゃ、そうだろう。僕達にはライオンやオオカミのような牙はないからね」
「残念だな」

 彼からは冗談や『からかい』の気持ちは全く伝わってこなかった。彼は至極真面目に考えているのだ。

「それで今は、もう一度挑戦したのか?」

 すると健斗が初めて僕に『意外だ』とでも言いたげな目を向けた。

「それがさぁ、変な話なんだけど。石野さんの方からもう一度噛んで欲しいって言うんだ」
「彼女の方から?」
「そう」
「それで、あんな風に噛んでいたのか」
「そう。どういう事かな」
「ううん」
 僕は考え込んでしまった。人を食べたがる男と、噛んで欲しがる女。アメリカのB級ホラー映画のタイトルのようだが現実だ。お互いどういう心境なのだろう。

 僕はこの部屋に入ってすぐに見た美紀のうっとりした姿を思い出した。異性にいくら自分の自信のある場所とは言え、太腿を大きく晒して見せるなどそう簡単に出来るものではない。ではあのうっとりした表情は何だったのか。

 僕に一つの仮定が生れた。

 美紀は究極のドMかもしれない。大人しい顔をしていても、その裏側には人には言えない淫らな性が有るのかもしれない。もしそうならサディストの健斗とはベストカップルになる。

 僕は一人で喜んでいた。つまらない学校だと思っていたが、結構な変態が集まっているじゃないか。探せばもっと他にもいるかもしれない。僕は独りニヤついていた。

「矢野君。矢野君。どうしたんだ? 一人でニヤニヤして」
「いや、何でもない。石野さんがそんな風に言ったのは、勢いじゃないか?」
「勢い?」
「そうさ。昨日から今日にかけて色々あったじゃないか。だから石野さんはまだ興奮状態なんだよ。だからその勢いで君に言ったんじゃないかな」
「そうかな」

 まだ頭を捻っている健斗に、多分君はドSで彼女はドMなんだなんて言おうものなら、健斗の事である。きっと確かめようとするに違いないのだ。そうなるとまた大騒ぎになる。さすがにこれ以上の大騒ぎは勘弁してほしかった。

 この日から美紀は僕達と昼食を一緒にすることはなくなった。心配した聖羅が彼女に理由を訊いたのだが、答えらしい答えは返ってこなかったらしい。しかし僕達が嫌われたわけではないようなので、その点は安心できていた。
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