第61話  真言と修法

文字数 2,188文字

「さて……」
甥が境内から立ち去るのを黙然と見送った兵衛は腰に佩いた太刀と脇差を抜き、ヤスフェに手渡した。
「そなたの天竺の太刀、かなり使い慣れていたであろうが、甥めが折ってしまい申し訳ない。代わりと言っては何だが、このわしの太刀と脇差を受け取って欲しい。中々の業物じゃぞ」
「そんな、もったいない」
ヤスフェは驚き、丁重に断ろうとした。
「カタナに詳しくない私でも分かります、この二本のカタナが由緒正しい価値のある宝の如き物であると。今日出会ったばかりの、サムライですらない私に受け取る資格はありませぬ」
「何、この老人の弱った足腰には重すぎる代物となっているのだ。受け取ってくれたら助かる。軽い足取りで家に帰れるでな」
兵衛は普段はあまり冗談が得意な者特有な不器用な笑顔と口調で言った。
「それにわしらは摩利支天の取り持つ縁で結ばれた同士であるぞ。遠慮は無用じゃ」
「兵衛殿……」
ヤスフェは感動で震える手で大小を受け取った。
「そしてこれも受け取るがよい」
そう言って兵衛は懐から真鍮製らしき小さな像を取り出した。
「それは……」
「摩利支天像である」
その像は猪の上に座し、輪光を背負う三面六臂の姿であった。三面の表情は無限の慈悲と同時に戦いを司る神としての猛々しさを両方矛盾なく秘めており、六本の手にはそれぞれ弓矢や独鈷所といった仏敵を討ち滅ぼす武具を手にしていた。
「美しい……」
「そうであろう」
ヤスフェが漏らした感嘆の言葉に兵衛は満足げに頷いた。
「これまでわしが造った物の中で最高の物であろうな。お主が戦いに赴く時もこれを懐に忍ばせておけば、これまで以上に摩利支天の加護が受けられるやも知れん」
「あまりにもったいないのうございまする」
「遠慮は無用ぞ。最早戦場に出ることの無いわしには無用であるし、この先ひょっとしたらこれ以上の物が造れるかも知れんでな」
「では、有難く頂戴いたしまする」
そう言ってヤスフェは摩利支天の像食い入るように見つめ、余すことなく鑑賞した後、己の懐にしまった。
「摩利支天を信仰する為に必要な事をそなたに伝えよう」
厳かにそう告げた後、兵衛は姿勢を正し、呼吸を整えた。
「オン・マリシエイ・ソワカ。さあ、お主も唱えるがよい」
不思議な言葉の響きに神聖な息吹を感じ取ってヤスフェは畏敬の念に打たれながら同じ言葉を唱えた。
「オン・マリシエイ・ソワカ」
「それが摩利支天の真言である。そして合戦に臨む武士が行う修法、摩利支天の法も伝えよう」
兵衛は右手と左手の人差し指と中指をそれぞれ立て、右手指で空中を切った後、右手指を左手に納めた。
「……」
ヤスフェは右手が太刀を左手を鞘にそれぞれ見立てているのだと理解した。
「先程我が甥が摩利支天は陽炎を神格化したものだと言ったが、その通りだ。陽炎は実体が無い故何者にも捉えられず、水火の災いを被ることも無く、敵の武器によって傷つくことも無い。自在の神通力を持ち、目には見えずとも常に我々を守って下さる。真言を唱え、修法を行うことによって摩利支天の大いなる力を我が物と出来るであろう」
ヤスフェは精神を集中しながらもう一度真言を唱え、先程兵衛が行った通りに右手指で空中を斬り、左手に納めた。
すると大地から目に見えぬ炎が揺らめき立ち上り、我が五体に神聖な力が満ち溢れた確かな感覚を覚えた。
「兵衛殿……」
「うむ」
黒い肌の偉丈夫と白髪の老武士は互いに力強く頷き合った。
「お主がこれからどういう道を歩み、いかなる敵と戦うのかわしには想像もつかぬが、摩利支天の加護を信じ、精進に励んで下され」
「はい。兵衛殿から授かった教え、この大小のカタナと摩利支天像に恥じぬ行いをすると誓いまする」
ヤスフェは深々と、心からの感謝を込めて頭を下げた。
「そして願わくば、デウスの信徒によるこの国の伝統ある神社仏閣の破壊を止めてくれるよう、何とか手を尽くして見てくれぬか」
兵衛の言葉にヤスフェは我が意を得たりと頷いた。
「はい。それが摩利支天より命ぜられた私の使命だと心得、全力を尽くしまする。幸い私の雇い主であるヴァリニャーノはカトリックを布教する上でこの国の文化に合わせるという方針です。さらに神社仏閣の破壊をそそのかすカブラルという男を快く思っていません。必ず手を打って破壊を止めようとするでしょう」
「そうか……」
「しかし彼もカトリックの宣教師である以上、神仏への信仰をこの国から根絶したいというのが本音かも知れません。カトリックが広がり力を持ったら手のひらを返して神社仏閣の破壊と神仏への信仰の弾圧を始める恐れがある。。しかしその時は私は彼の護衛の任を辞め、この命に代えても彼を止めて見せましょう」
ヤスフェの力強い宣言を聞き、兵衛は頼もしさと同時に心配も感じたようである。
「くれぐれも無茶な真似だけはせぬようにな」
慈父の如き表情を浮かべた兵衛を見て、ヤスフェの胸は熱くなった。そして幼い頃に目の前で無残に殺された父や祖父の顔を思い出し、不覚にも涙がにじんだ。
「ではこれにて失礼いたしまする」
失った家族と故郷を思い出し、萎えた心を叱咤しながらヤスフェは兵衛に別れを告げた。
真の信仰と使命に目覚めた己に追憶に耽ることも歩みを止めることも許されないはずであった。
「うむ。摩利支天の加護が有らんことを」
兵衛もまたヤスフェの心中を察したのだろう、別れを惜しむ色は見せず、快く見送ってくれた。

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