第31話  恩愛の重み

文字数 3,022文字

「再び包囲戦となりましたか。しかしもはや荒木方に抵抗する力は残っていますまい」
その日の夕刻、三方の濠に囲まれた有岡城の本丸を遠目に眺めながら、滝川一益は隣のまだ若い武将に慇懃な態度で語り掛けた。
「だが油断は禁物。蟻のはい出る隙間もない程厳重に包囲網を固めましょうぞ」
若い武将は逸る血気を抑えるように慎重な態度で答えた。
「その通りです、津田七兵衛殿。流石大殿の甥君にして側近を務められるだけはありますな。その若さでよく戦が分かっておられる」
滝川はその浅黒い朴訥な顔に大げさな笑みを浮かべて追従を口にした。半分はノブナガの血縁者に対する媚びであったが、もう半分はこの若武者の武将としての力量に対する素直な賞賛であった。
七兵衛こと津田信澄(つだのぶすみ)はノブナガの同腹の弟である織田信行(おだのぶゆき)の子である。
信行は二度も謀反を企んだが故、ノブナガは涙を呑んでやむを得ず誅殺したが、その子達は助命した。
織田家筆頭家老にして随一の猛将と名高い柴田勝家に養育されその薫陶を受けた信澄は津田の姓を名乗り、長じると武将としての優れた器量を表すようになった。
ノブナガの側近を務めながら同時に一軍を率いて本願寺の軍勢を相手に果敢に戦い、見事な武勲を立てている。
ノブナガはこの手で殺めねばならなかった同腹の弟への哀惜の念もあるだろうが、武将しても優れたこの甥の才を愛し我が子同然に可愛がっている。
それは特にお気に入りの家臣である明智光秀の娘と結婚させていることからも明らかだろう。
この若武者がいずれ織田軍の中核に座するのは疑いない。今から媚びを売って損は無いはずと滝川が考えるのは当然と言えるだろう。
「あくまで油断は禁物。まあ、そうは申しても……」
滝川は顔を撫でながら再び有岡城の本丸に視線を向けた。三方の濠の水は黒く濁り、その底には焼かれた建物の残骸や灰、さらには有岡武士の骸が沈んでいることだろう。その水に囲まれた本丸は落日の紅を帯び、不思議なふてぶしさでそびえたっている。                         百戦錬磨の古強者である滝川は微塵も油断はしないが、荒木方に抵抗する力は皆無だと確信している。
このまま包囲を続けて飢え殺しにしてやるか、降伏を申しでたら承諾するふりをして出て来たところを皆殺しにしてやろう。
滝川はそう考えて余裕の笑みを浮かべていた。常の慇懃でいかにも長者らしい温顔を捨てて酷薄な気性を露わにする滝川を津田信澄は冷たい軽蔑の念が籠った視線で見た。
信澄は特に最早運命が決した有岡の者共を憐れむ気持ちがあるわけではない。ただ勇猛さを至上の美徳と考えているが故、包囲して敵の自滅を待つというやり方に不満を感じているだけである。
そうは言っても滝川一益は織田軍の五指に入る名将として重きをなす存在である。その人柄は尊敬に値しないとしても、不敗の名将と称えられるその緩急自在の巧者ぶりは虚心に学ばねばならないだろう。
信澄は猛き心を抑えて厳重に包囲を続けた。
しかしそんな二人の武将の元にノブナガから新たな命令が下った。
「何、有岡城と共に尼崎、花隈城を明け渡せば、本丸にいる者共全員の命を助けると約束して降伏勧告しろだと?」
滝川は信じられぬとばかりに首を振った。
「馬鹿な!何故ここに来てそのような譲歩をせねばならぬのだ。もうすぐではないか。あと数日で本丸の者共は精魂尽き果てるに決まっている」
「……」
「一年にもわたって手こずらせた小癪な者共だぞ、一人残らず根切りにしてやるのが当然ではないか。大殿は何故このような……」
「主君に置き去りにされ、それでもなお抵抗するしかない彼らを憐れんだのやも知れませんな」
信澄は肩をすくめながら冷ややかに言った。
「憐れんだ、ですと?」
滝川は若い武将を嘲るように応じた。
「謀反人に付き従い、寄せ手を散々手こずらせた者共相手に慈悲を与える等、あの大殿に限ってそんなことがあるはずが無い。そうだ、これは詐術にござろう。寛大な処分で油断させ、開城したところを根切にせよという命令に違いない」
これまでノブナガの苛烈極まりない命令を実行してその手を汚し続けた滝川一益である。
彼は主君を酷薄無惨にして慈悲の心など少しも持ち合わせていないまさに第六天の魔王の名にふさわしい恐るべき王だと信じているのだろう。
だが信澄は知っている。我が叔父の苛烈さと冷酷さは表の一面に過ぎず、その裏にはそれと同量の慈悲深さ、寛容さを確かに持っていることを。
叔父ノブナガは人間の行動に対する独特の美意識を持っており、その美の基準に敵う者に対しては特に愛情を抱き、慈悲深く振る舞おうとする傾向があるように思える。
それは「一度は許されておきながら、その恩に背いてまたも謀反を企てて遂には誅された愚かな弟」を父に持ち、その汚名を晴らそうと懸命に励む甥、信澄に細やかな愛情を注ぎ、期待をかけていることからも明白であろう。
(ああ、荒木村重よ、お主はもしかして……)
信澄はここに来て、何故荒木村重がこれまで受けた大恩に背いて謀反を起こしたのか、分かったような気がした。
(叔父御に武将としての器量を見込まれ、次々と課せられる仕事をこなして恩に報いることに疲れ果て、嫌気がさして逃げたのではないか、お主は)
ノブナガは特に己が見込んだ武将、お気に入りの側近には間断なく重要な仕事、任務を与え続けることで知られている。
それは無論戦乱の世を終わらせ、「天下布武」を実現させるという己の理想、野心の為であることは疑いない。
しかし同時に仕事を与え続けることによってその勇武、その器を刀鍛冶が槌で打つことによって刀剣を鍛えるように鍛え上げ、武功を立てさせることが主君としての恩愛の証だと固く信じて疑わないようである。
そのノブナガの主君としての峻厳な姿勢、深く濃い恩愛に類まれなる智勇、不断の努力と超人的な意志力でこれまで完全な姿勢で答え続けてきたのがこの滝川一益を始めとする方面軍司令官達であるといって良い。
だが結局、荒木村重は彼ら方面軍司令官達と同格の存在でありながら、滝川や明智、羽柴程の尋常ではない精神力、功名に対する飢えが不足していたため、脱落してしまったという事では無いのか。
(おそらくこれからも出るのであろうな。叔父御の、大殿の恩と期待に応えられずに脱落する者が……)
信澄はちらりと滝川の顔を盗み見た。一見朴訥に見える目鼻立ちだが、その双眸に宿る光は非人間的なまでに酷薄獰猛であり、野生の獣のそれを思わせた。
(まあ、この滝川は大丈夫だろうな。それとこの男と同じ眼光を持つ明智と羽柴も。本来外様である滝川と明智、それに素性の卑しい羽柴、この者共は生粋の功名餓鬼よ。恩に報いると称して叔父御が与える功名と立身という餌を飽くことなく喰らい続けるであろう。だが織田家代々の家臣の家に生まれた柴田、丹羽、それに佐久間はどうであろうな。彼らはその氏素性の確かさ、育ちの良さ故そのような飢えが不足している気がする)
そしてそれは他ならぬこの信澄自身もそうであるかも知れない。叔父の恩愛と期待には心から感謝し、全身全霊でもって応えていきたいと思う気持ちに偽りは無いが、時にはそれらがどうしようもない重荷に感じ、逃げ出したくなる衝動に駆られてしまう時がある。
(俺は最後まで脱落することなく、叔父御に付いて行けるのだろうか……)
信澄は己の行く末に一抹の不安を感じながら、助命条件を伝える使者を本丸へと派遣した。






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