第46話  護衛

文字数 2,516文字

「自由か……」
心の底から欲し、狂おしい程渇望していたものがようやく手に入り、ヤスフェは感無量であった。
奴隷狩りにつかまり、遠い異国であるインディアに連れてこられ軍事奴隷たるハブシとなって九年の月日が流れていた。
ヤスフェはこの時二十一歳。若くみずみずしい肉体は絶頂期を迎え、未来は無限の可能性に満ちているかと思われた。
(だが、やはり私は戦士として生きていくほかないのだろうな)
ヤスフェは己の鋼の如き腕の筋肉を撫でながら思った。
己は幸か不幸か、戦いの為の天賦の才を与えられた。そしてその才は未だ完全に発揮尽くされておらず、己の深きところに武の水源はまだまだ蔵されているのだという強い確信があった。
(私は己の未だ眠っている才を全て解放しなければならない。そして真の自分と出会うまで、戦い続ければならないのだ)
ハブシの身分から解放されたヤスフェの元には傭兵として、あるいは護衛として雇いたいという声が殺到した。
無論ヤスフェの卓越した戦闘技術を認めての事だろうが、それ以上にその稀有なまでの謹厳実直な人柄が評価されていたのである。
「あの男ならば、逃げることも裏切ることも決してあるまい。重要な仕事も安心して任せられる」
このような声が上がるのは当然と言えた。傭兵隊長に任命して百人の兵を預けたいという依頼もあった。
だがヤスフェは傭兵になるつもりは無かった。
戦士として生きる覚悟を決めた以上、これからも殺戮という人としてもっとも重い罪業を重ねていかねばならないのは当然だろう。
だが金銭の為に何の恨みも無い者を殺すことに強い嫌悪感を感じるというのが本音であった。
(我ながら勝手な話だ。自由を得る為に戦場で人を殺してきた私に、日々の生活の糧を売る為に戦場で人を殺す彼らを道義的に攻める資格などあるはずが無いのに)
だがこうして自由の身となったからには、心の底から己が納得できる理由で戦いたい。
自分は選択する権利を有しているのである。当然ヤスフェが選んだのは護衛という職であった。
ヤスフェを雇いたいと声を上げた貴族、富豪は数多くいた。彼らが競い合うように提示した報酬は元ハブシの身分の人間に対しては破格の大金と言っていいだろう。
だがヤスフェは己が守るべき人物は有する財産、払ってくれる報酬の多さではなく、その人格によって選びたかった。
(人間の価値を金を稼ぐ能力で決めるような者、奴隷や元奴隷の身分の者を蔑むような心の卑しい人間の為に戦いたくはないからな)
ヤスフェが選んだのはラーヒズヤという富豪であった。
苦労知らずの二代目であるが、大金持ちらしい尊大さ、狷介さはまるでない温和な好人物らしい。
使用人達に対して声を荒げることも奴隷に対しても鞭を振るうこともなく、どのような身分の者に対しても常に寛大に丁寧に接するという評判である。
彼がヤスフェに提示した金額は他の富豪達に比べればやや少なかったが、ヤスフェは迷うことなく護衛としての初任務はこの人物だと心に決めた。
ラーヒズヤがその大豪邸を構えるのはインディア西海岸中部のマンドウィー河の河口にある島にある大都市ゴアである。
ゴアは元はイスラーム系の王朝の元貿易で栄えた港であったが、西暦1510年、プルトゥガルの兵団の攻撃によって降伏。
それ以来プルトゥガルによるアジア支配の一大拠点として繁栄を極め、「小リスボン」あるいは「黄金のゴア」などと呼ばれている。
その名の通り、街にはヨーロッパの技術によって建築されたキリスト教カトリックの壮麗な教会や修道院が立ち並んでおり、ここは本当にインディアの都市なのかと疑われる程であった。
そのゴアにて大邸宅を構えるラーヒズヤという大富豪は全く邪心の無い気のいい人物であった。
家業である貿易は息子に一任し、自身は趣味である美術品蒐集と読書に没頭していた。
ヤスフェは彼が美術品や書物を購入する為に外出する際、護衛として側に付くのだが、その腕を振るう機会はまるでなかった。
ゴアはこの広大なインディアにあって特に治安が良い街であったし、ラーヒズヤも人から恨みを買うことなど全く無い人物であったからである。
一度、刃物を振り回す逃亡中の強盗と遭遇したが、ヤスフェは剣を抜くこともなく拳一つで簡単に叩き伏せてしまった。
ヤスフェはラーヒズヤの護衛を五年程務めることになったが、全く無為な時間を過ごした訳ではない。
最大の収穫は、ラーヒズヤの膨大な蔵書を閲覧することを許可されたことである。
ヤスフェはハブシの見習い時代にごく初歩的な読み書きを教わったに過ぎず、成人してからの学問は困難を極めたと言っていい。
しかしヤスフェは鋼の意志をもってこれに臨んだ。ラーヒズヤは寝食を忘れて学問に没頭するヤスフェを応援してくれた。
元々人にものを教えることが好きなのだろう、進んでヤスフェの疑問に答え、次に読むべき本を懇切丁寧に指導してくれた。
こうしてヤスフェはあまりに広大にして深遠なインディアの学問の世界に踏み入り、哲学、宗教を懸命に学び始めたが、その時間は突然終わりを告げた。
ラーヒズヤが病で突然この世を去ってしまったのである。
跡を継いだラーヒズヤの息子は清廉な人物ではあったが、万事において厳格であった。
趣味生活に家産を傾けていた父を苦々しく思っていたらしく、父のお気に入りであったヤスフェを嫌悪しているのは明らかであった。
彼からすれば、ヤスフェは護衛としての仕事をおろそかにして読書にふける不届き者にしか見えなかったのだろう。
(そう思って当然だ。彼は正しい)
ヤスフェは雇い主の好意に甘えきっていた己を厳しく戒めた。無論、学問に励んだ月日が無駄であるはずも無く、今後の人生において大いなる財産になるのは間違いないだろう。しかし戦士としての鍛錬をおろそかにしてしまい、腕が鈍ってしまっていることは間違いない。
ヤスフェはラーヒズヤの息子に解雇を言い渡される前に自分から退任を申し出た。
ヤスフェの殊勝な態度に気をよくしたのだろう、ラーヒズヤの息子はかなりの金を与えて送り出してくれた。
これで当分生活に困ることは無いだろうが、無論ヤスフェはこれ以上安楽な日々を過ごすつもりはない。
すぐに次の雇い主を探し始めた。




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み