第54話  トルデシリャス条約

文字数 2,268文字

「それはどういう意味だ」
ヴァリニャーノは怒気を露わにして言った。最早カブラルに対して一定の敬意を払う必要は感じなかった。
カブラルは偏狭で傲慢ではあっても、学識高く、イエズス会宣教師として真の神の威光を広めるという崇高な使命に愚直に邁進する清廉な男だと信じていたのである。
しかしこの時カブラルの眼鏡の奥の緑青色の瞳に宿るのは燃えるような使命感や狂熱的な信仰の光だけではなかった。
異教徒ジャポネーゼに対する明確な殺意であり、カミとホトケへの信仰を礎とするこの国の文明をことごとく焼き払い、根絶したいという破壊の意志であった。
まさしく新大陸で暴虐の限りを尽くしたコンキスタドールと同種のものであることは疑いなかった。
「大友宗麟やその他の王の配下の兵は時が来れば呼応することになるでしょう。そう、プルトゥガル王国の軍隊がこの地を征服する為にやってきたその時に……」
「馬鹿な事を」
ヴァリニャーノは吐き捨てるように言った。
「貴方は何年もこの国に滞在しながら、一体何を見ていたのです。有色人種、異教徒だからと侮らずしっかりとこの国の進んだ文明、国民の優れた所をちゃんと見なさい」
「……」
「この国の国民が世界に類を見ない程武術を尊ぶ勇猛な国民であることは明らかでしょう。それにその所有する鉄砲の数です。この九州と呼ばれる小さな島ですら相当な数を所有している。聞くところによれば、この国の中央を制しようとしているノブナガと言う名の王はさらに膨大な鉄砲を所有しているようだ。もしかしたら、既にジャッポーネが所持する鉄砲の数は、ヨーロッパ全土のそれをも上回っているかも知れない。弓矢しかなかった新大陸を征服するのとは訳が違う。ジャッポーネを軍事的に征服することは現実的に見て不可能だ」
ヴァリニャーノは異教徒の地に真の信仰をもたらす為には、伝道ではなく軍事力を用いて征服すすることもやむを得ないと考えている。
多くの人が死に、奴隷にされ富を収奪されるとしてもそれは長きにわたって異教の悪魔を信じた罰であり、時が経てば真の信仰によって魂が清められ、キリスト教が創造した優れた文明の恩恵を浴びることになるのだから、結果として正しいことなのだろうと思っている。
それがキリスト教カトリック、イエズス会士としての信念である。
しかしかといってそこに異教徒、有色人種への憎しみや殺意を持ち込むべきではない。
異教の文明を破壊することは唯一絶対のデウスの意志であり、異教徒の迷妄を晴らし、真実の信仰に導く気高い行為であることを忘れてはならない。
また異教徒であっても優れた部分があればそれは認め、評価するべきだと考えている。
(この国の国民、ジャポネーゼはヨーロッパ人とはあらゆる面で対照的な民族であるが……。恐ろしく勇猛でヨーロッパの軍隊とも互角に戦う力が有ることは認めざるを得ない。その上既に鉄砲を大量に生産することを可能にしている。この国は危険だ)
ヴァリニャーノはこの国の人々に対して好意を抱いている訳ではない。むしろ不可解極まりない不気味な民族だと思っている。しかしだからと言って過小評価する気は無い。
軍事的に征服せんとして攻撃を仕掛け失敗すれば、この国の人々にキリスト教カトリックへの決定的な不信と敵意を植え付けてしまうことになるのである。そうなっては取り返しがつかないだろう。
この国は地道で堅実な布教によって福音をもたらすべきだとヴァリニャーノは確信している。
「勇猛とは言っても所詮は蛮族に過ぎません。高貴で洗練されたヨーロッパの軍隊の前では獣の群れ同然でしょう。それに鉄砲を大量に所有すると言っても猿真似で造った粗悪な代物に決まっている。ヨーロッパの本物の鉄砲に比べれば遥かに性能は劣るでしょう」
カブラルはなおも言い張った。彼からすれば呪われた愚かな異教徒、劣等な存在である有色人種が真の神の加護を受けた白色人種のキリスト教徒と互角に戦えうることなど絶対にあり得ないことなのだろう。
それは唯一絶対の神の定めた条理に反することだとカブラルは心の底から思っているに違いない。
「それにヴァリニャーノ師、お忘れですか?トルデシリャス条約の事を。この国がプルトゥガル王国の領土であることは既に百年近く前から決定されたことなのですよ」
トルデシリャス条約とはキリスト紀元1494年6月7日にエスパーニャ帝国とプルトゥガル王国の間で結ばれた条約で、両国の間で引かれた海外支配領域分界線のことである。
奴隷商人クリストファー・コロンブスが新大陸に到達したことによって、その地の支配をめぐって大航海時代におけるヨーロッパの二大強国であるエスパーニャ帝国とプルトゥガル王国の対立が激化することが懸念された為、ローマ教皇アレクサンデル六世が調停に出た。
アレクサンデル六世は1493年に北アフリカの西の沖合で大西洋の中央を通過する子午線、いわゆる教皇子午線を境界にして、それより西側の島と陸地は全てエスパーニャ帝国のものとする勅書を出した。
しかしそれは元々エスパーニャの出身であったアレクサンデル六世が自国の利益を図った不平等なものだとプルトゥガル王国が反発し、エスパーニャ帝国と直接交渉、教皇子午線をさらに西側に移動させることで合意した。
つまりエスパーニャ帝国とプルトゥガル王国で全世界を二分割して支配しようという条約がトルデシリャス条約なのである。
この条約にもとずいて両国は海外進出、ようするに侵略戦争と植民地支配に狂奔することになる。
これがデマルカシオン体制、つまり世界領土分割体制であった。


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