第28話  城抜け

文字数 2,440文字

「この有岡城に籠城してはや十ヶ月。もはや武器弾薬は尽き、兵糧も残り少ない。そして毛利は必ず後詰をするという固く約束したにも関わらず、未だ一兵も送って来ぬ。無論、毛利には毛利の事情があるのだろう。冷静になって考えてみれば、奴らは儂らを見殺しに出来ぬはずじゃ。この有岡が陥落し、摂津国が織田の物となれば、いよいよ毛利は織田と正面から直接刃を交えねばならなくなるのだからな」
村重が重臣達を見据えながら語る声は淡々としていたが、その大きな眼には狂熱的な光が宿り、鬼気迫る表情となっていた。
重臣達は主君の異様な迫力に飲まれ、まばたきすら忘れてその話に耳を傾けた。
「おそらく毛利家当主、輝元(てるもと)は我らが置かれたこの抜き差しならぬ状況を未だ理解しておらぬのではないか。あれはまだ若い故な。この村重と有岡武士の武勇ならば、いましばらくの間持ちこたえるであろうなどと考えておるのやも知れぬ。いや、きっとそうであろう」
「されば、輝元殿に直に我らの窮状を訴えて……」
「そう、その通りじゃ」
重臣の一人の言葉に村重は我が意を得たりと大きく頷いた。
「そこでこの儂自らが直々に輝元と彼の二人の叔父、毛利両川と呼ばれる小早川隆景(こばやかわたかかげ)吉川元春(きっかわもとはる)に会って至急兵を送るよう説得したいと思う」
重臣達は主君の言葉の意味が理解できず、しばし困惑した表情を浮かべた。そしてやがてその表情が凍り付いた。
「そ、それは殿が城を抜け、安芸(あき)の国に赴かれると……?」
「その通りじゃ」
昂然と頷く主君を見て、重臣達は息を飲んだ。主君が追い詰められて遂に正気を失ったかと本気で疑った。
孤軍籠城する軍勢の大将が城を抜けて自ら援軍要請の使者を務めるなど、聞いたことが無い。軽率だなどという言葉で評する域を遥かに超えている。
このような愚行は本朝の歴史はおろか、唐天竺にも例がないであろう。近頃よく見かける南蛮人の歴史にも無いのではないか。
「何故、殿御自身が使者になる必要があるのです!」
「誰か心きいたる者を遣わされば良いではありませんか」
「主君自らが軽々しく使者などになれば、我らは末代までの笑いものになりますぞ!有岡武士にはそこまで人がおらぬのか、心きいたる者が一人もおらぬのかと……」
村重はその並外れて大きな手をかざして重臣達の必死の諫言を封じた。
「お主達の言う事はよく分かる。確かにお主達の誰か一人を遣わすべきやも知れぬな。だが恐らくそれでは足りぬ」
村重は悲痛な表情で言った。
「この儂自らが輝元にこの追い詰められた有岡の状況を説き聞かせ、今すぐ兵を送ってくれなければその場で腹を切るぐらいの覚悟を見せつける。そうでなければ彼らは動かぬであろう」
「……」
重臣達は言葉を失った。主君の鬼気迫る態度に狂気じみたなものを感じ不安を大いに覚えたが、その言葉に一理あることを認めざるを得なかった。
最早一刻の猶予も無い。早急に、そして確実に毛利の援軍がやって来ない限り、この有岡に抗う術は残されていないのである。
「仰せのことはひとまず心得ました。しかし安芸の国に行って戻って来るとなると、最低でも一月以上はかかりましょう。その間兵共はどういたしまするか?大将が不在だと知ると大いに動揺してさらに逃亡する者が増えるのは必定でござろう」
「それは、儂が病気だと言う事にして……」
「殿が長患いだと知れば、余計に動揺するのではありませぬか」
すかさず反論され、村重は唸った。
「それに織田の者共も今は攻めてくる様子はありませぬが、我らの動きを注視しているのは間違いありませぬ。殿が城を抜けたと知ると、一気呵成に攻め寄せて来るやも知れませぬぞ」
「そこをお主達が何とかするのじゃ」
村重は顔面を朱に染めながら怒鳴った。
「儂の不在を上手く取り繕って兵共の動揺を抑え、織田の者共にも決して悟られぬように致せ。それぐらいのことは出来よう。出来ずして何が有岡武士か。荒木家の重臣か。何のために今まで高禄を食んできたのじゃ」
「……」
凍り付いた重臣達とは対照的に村重は全く場違いと言うしかない、不気味なまでに陽気な声を上げた。
「さあさあ、しばしの別れじゃ。ささやかな宴を開こうではないか。お主達、しばらく酒を飲まずに苦しい思いをしたであろう。儂が秘蔵していた酒を振る舞おうで、存分に飲め。そうじゃ、久しぶりにひとさし舞って進ぜよう。儂が若年より能の業前を磨いてきたのは知っておろうが、見たことが無い者も何人かおるな。披露してやるで、目の肥やしにするがよいぞ」

九月二日の深夜、村重はわずか数人の供を連れてこっそりと有岡城から抜け出た。
ひとまず猪名川から船に乗って我が嫡男である村次(むらつぐ)の居城である尼崎城に移り、村次に事情を詳しく説明してから安芸の国に赴く手はずである。
村重自身が背負う荷物は三つ。それらのいずれにも供の者が触れることを決して許さず、村重はまるで神に献納する宝具のような丁重さで船中に運び入れた。
中身は高麗茶碗である「荒木高麗」、茶壷の「兵庫壺」、そして能に用いる鼓である「立桐鼓」である。
(毛利輝元、それに毛利両川程の者共の心を動かすには大名物を用いて儂が茶を立て、この鼓を打つ音で舞わねばならぬやも知れぬ。それに恐らくはこれらの宝の一つぐらいは奴らに譲ってやるぐらいはせねばならぬであろう)
村重はこれら荒木家の家宝、天下の大名物を我が身にくくりつけて持ち出した理由を懸命に己に言い聞かせた。
(そうじゃ、あくまでこれらは毛利からの援軍を確実に引き出す為に必要な物。武人を捨ててこれらの道具を愛でながら余生を過ごそうなどと血迷ったことは考えておらぬ。決して……)
猪名川の水面は氷盤の如き月より落ちてくる皓皓たる光に照らされ、まるで一面が鮮やかに霜に覆われたように見える。夜の川風は落ち葉を吹き上げ、空中での乱舞へと誘っている。
河原の虫共が鳴く深沈とした音と枯れ蓬が冷たく厳しい風に打たれて鳴る乾いた音が二重奏となって響く闇の中、一艘の小船は流れに乗って静かに、だが力強く一気に下って行った。



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