第32話  尼崎城

文字数 2,248文字

津田延澄(つだのぶすみ)から降伏を許す条件を提示され、本丸に籠る重臣達の間では意見が割れた。
「こんな条件は詐術に決まっておる。よく考えてみよ、これまでの信長の所業を。あの男はこれまで幾度も根切り、撫で斬りを行って来た非道な男だぞ。ここまで抗った我らを許すはずが無いではないか。まんまと騙されて城を開け渡した挙句、皆殺しにされたのではまさしく天下の笑いものよ。同じ死ぬにしても城を枕に戦って死んだのなら、あっぱれ武士の誉として語り継がれることにもなろう。その方がはるかにましではないか」
まだ若く血気盛んな武士達は猜疑心を露わにして玉砕を主張したが、年かさの重臣達は慎重であった。
「いや、確かに信長は苛烈な御仁であるが、意外と義理堅く約束を守るところもある。ここまで固く約束すると念を押しているのだから、信じてよいのではないか」
「どのみちこれ以上抗っても先は見えておる。女子供や若い者共をこれ以上死なせとうは無い。いざとなれば儂ら老いぼれ達が揃って腹を切ってでも必ず約束を履行させようぞ」
老臣達の懸命な説得に、遂に抗戦を主張する若い武士達は折れた。
罠に掛けられて皆殺しにされるのではないかと言う恐怖と疑心から抗戦を主張していたものの、実際は既に精魂尽き果て、戦う力など微塵も残されていなかったのである。
「よし、それでは開城致そうぞ。皆の者よ、くれぐれも見苦しい真似はするな」
村重に代わって有岡城の城守を務めている荒木久左衛門(あらききゅうざえもん)が厳かに告げた。
そしてノブナガの甥である津田信澄が接収部隊を引き連れて本丸へと入城してきた。武装を解いた有岡武士、及び女子供老人達は恐怖に震え固唾を呑みながら信澄率いる武士達を見守る。
だが信澄率いる武士達には殺気立った様子は無く、いずれも折り目正しく振る舞ったため、どうやら約束を破って皆殺しという最悪の事態は避けられたらしいと安堵した。
「戦は終わったのだ……」
一年にも渡って抵抗を続けた有岡の人々はため息をつき、虚脱感に満たされた。
全面降伏という不甲斐ない結果に終わったが、天下の半ばを切り取った覇王の軍勢に少なからず痛撃を与えることが出来たのだ。
これでもって良しとすべきであろう。有岡武士達はそう己を慰め、同胞達と健闘をたたえ合った。
だが城守たる荒木久左衛門はここからが正念場であった。
「必ず尼崎城と花隈城を開城させていただきたい。これは絶対条件でござる」
その双眸に峻烈な光を灯しながら念を押す信澄に、久左衛門は圧倒されながらも神妙な表情で頷いた。
「お任せくだされ。信長様の御慈悲に報いるべくこの久左衛門、必ずや摂津守様を説得してご覧にいれまする」
久左衛門は人質として妻子を信澄に預け、三百人の手勢を率いて村重とその嫡男村次が籠る尼崎城へと向かった。
尼崎城は大物川と庄下川が大阪湾に注ぐ三角州に築かれた城で遠目には海に浮かんだ城に見える。
水濠は三重で縄張りはほぼ正方形になっており、その堅牢さは有岡城程ではないにせよ、相当な物であることは一目瞭然であった。
むしろ海を背にしている分、攻めにくさと言う点では有岡城を凌駕していると言っていいだろう。
尼崎城の門前で久左衛門を出迎えたのは荒木配下の武士ではなかった。毛利家、本願寺より派遣された御番衆の者達である。
彼らは久左衛門が尼崎城に入城することを許さなかった。
「な、何故」
「そなたらが独断で降伏して開城したこと、我らも既に聞き及んでおる。総大将たる荒木摂津守殿の指図も受けず勝手に降伏して城を明け渡すとはまさに言語道断の振る舞い。血迷うたとしか思えぬ。そのような不届き者とは断じて会わぬというのが摂津守殿の仰せじゃ」
予想もしていなかった言葉に久左衛門は愕然となった。これまでまともに援軍を寄越さなかったにも関わらず威丈高に振る舞う毛利、本願寺の御番衆の態度に久左衛門は腹が煮えつつも、何とか自制して辞を低くして織田方が提示した条件を伝えた。
「御館様に会わせてくだされ。そうでなければ埒が明かぬ」
「その必要はござらぬ。我らから摂津守殿にお伝え致す。しばらくそこでお待ちいただこう」
久左衛門と三百の兵は城門の外で捨て置かれた。城壁から無数の弓と鉄砲がこちらに向けられている。いずれも毛利家、及び本願寺の兵であるらしい。
彼らの眼にはまるで敵に対するような猜疑と殺意が充満している。
久左衛門は長い籠城戦で心身共に疲労の極みに達しており、さらにこの余りに理不尽な扱いと、断じて会わぬという主君の言葉に打ちのめされ、呆然となってその場でへたりこんだ。
「御館様……」
久左衛門は有岡城を抜け、尼崎城に出向く時の我が主君の顔貌を思い出していた。
かつては鬼か獣を思わせた魁偉な顔は見る影も無く肉が削げ落ち、その眼は血走って異常な光が灯っていた。
思えばあの時既に村重は精神の均衡が乱れて己を取り巻く現実から目を背け妄想の世界に足を踏み入れ、正常な判断能力を失っていたのではないか。
果たして今の我が主君にノブナガの寛大さに誠実な姿勢で報い、有岡の人々を守りながら謀反人の汚名を晴らす力など残っているのだろうか。
(儂らはもう戦は終わった、助かったのだと思っておった。しかしそれはとんでもない誤り、早合点だったやも知れぬ)
久左衛門は最悪の結末、この世に現出する阿鼻叫喚の地獄の光景が脳裏に浮かび、その顔は紙の様に白くなった。
その久左衛門とぼろを纏った敗残兵そのものの姿の三百人の兵を海から吹いてくる雪交じりの冷風が容赦なく吹きつけ、その疲れ切った五体を無慈悲に叩いた。



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