第43話  奴隷市場

文字数 2,583文字

(ハブシの戦士、か)
ヴァリニャーノの言葉によって否応なくヤスフェの脳裏にかつて駆け巡った灼熱の太陽が天空に燦と輝き石をも焼くかと思われる凄まじい熱波が降り注ぐインディアの過酷な戦場の日々が思い浮かび、そしてやはり厳しい気候であった生まれ故郷での辛く苦しい幼少時代を思い出された。
ヤスフェの生まれ故郷はアフリカ大陸の南東、インド洋の西にあるモザンピークと呼ばれる国である。
その名はプルトゥガル人の航海者であるヴァスコ・ダ・ガマが辿り着いた小島の港名「モサンブコ」に由来しており、先住民の言葉で「船の集まる所、停泊地」を意味しているという。
最もヤスフェは侵略者たる西欧人が勝手に名付けた国の名など認めてはいないし、二度と故郷に帰ることも無いと思っている。
それ程故郷での幼少時代の記憶は陰惨で忌まわしいものであった。
ヤスフェの家族は牧畜が本業であったが、それだけでは到底食べてはいけず、畑も耕していた。
当然幼いヤスフェとその兄弟も両親を手伝って朝から晩まで働かねばならなかった。
子供らしい遊びなど何一つ許されず、まともな教育など受けれようはずも無い。つらい労働に明け暮れることだけによって幼い子供としての日々は支配されていた。
しかもその厳しい労働による対価、報酬を充分に受け取って豊かな生活が享受出来た記憶は全く無いと言っていい。
ヤスフェが暮らす名も無き村は民族同士の紛争に幾度も巻き込まれ、その都度家を焼かれ、丹精込めて育てた畑の実りは踏みつぶされ、貴重な財産であり家族同然とも言うべき家畜が奪われて行った。
ヤスフェは家族と共に森に隠れながら、野獣としか思えない略奪者を満腔の憎悪を込めて睨み付けるしかなく、彼らに一矢報いる力すらない無力な己を呪った。
そしてヤスフェが十二歳になった時、運命の嵐は狂暴に、無惨なまでに激しく吹き荒れ、さらなる過酷な人生をアフリカの少年に歩ませることを強制するのだった。
十年以上前の出来事だが、あの夜の出来事は脳裏に焼き付いており、たびたび鮮明に眼前に浮かびあがって来る。
(あの夜の襲撃は紛争ついでの略奪なのではない。明らかに人狩りが目的だったのだ)
襲撃者の数も武装の質もこれまでとは明らかに違っていた。そしてその凶暴さ、殺意の濃厚さも。
彼らの目的は子供と若者を連れ去ることで、それ以外の大人、老人は皆殺しにするという方針を明確に決めていたのだろう。
(父、それに祖父と祖母は俺の眼の前で殺された。槍で貫かれ、斧で頭を叩き割られ……。そして母は幾人かに暴行されていた。直接は見ていないが、その後殺されたのは間違いないだろう)
そしてヤスフェとその兄弟、幼馴染たちは鎖でつながれ、歩かされた。海岸沿いの奴隷市場まで。
(一体どれ程歩かされたのだろうな。今から思えば一か月程だったかも知れん。だが子供の私には永遠とも思われる程長い時間であった。世界の果てまで歩かせられるのかと思った程だ)
鎖でつながれ眼の前で殺された家族の血が付いたままの姿で歩かされる恐怖、常にさいなまれる空腹感、そして脳髄が沸騰し、内臓が焼け付くかと思われる程の怒り、悲しみ、そしてそのような地獄の歩みを自分たち子どもに強制する慈悲の心など一欠けらも持ち合わせていない悪鬼の如き襲撃者への憎悪。
(あの時味わった感覚は今も忘れない。おそらく死ぬまで忘れることは無いのだろうな)
ようやく海岸に到着した時には、捕虜の数は三分の二程までに減っていた。長期の歩行に耐えられない病気の者、体力の無い者は置き去りにされ、激しく抵抗した者はその場で殴り殺され、あるいは山から突き落とされた。
幸いと言っていいのだろうか、ヤスフェとその兄弟は全員脱落することなく海岸にたどり着くことが出来た。
家系なのだろう、ヤスフェの血族の者は皆長身で頑健な肉体を有し、忍耐強い気性だったからである。
山裾の小さな村で育ったヤスフェにとって海を眼にするのは生まれて初めてであったが、感動や喜びは微塵も感じなかった。ただ不気味で恐ろしい、異界への入り口のようにしか思えなかった。
そして海岸に蠢く様々な人々。見たことも無い奇妙な服を纏い、その肌の色も様々であった。
驚く程白い肌の者もいれば、薄い褐色の肌の者もいた。そしてその眼の色も様々であったが、そこに浮かぶ感情は同じだったと言っていい。
ヤスフェ達を品定めする目。きつい労働に耐える肉体を有しているか、主人に逆らうことのない従順な性格であるか、あるいは側に置いても見苦しくないよう、容姿に恵まれているか。
(あれは人間を見る目ではなかった。物を見る目だった。同じ人間でありながら、私たちを人間だと思っていなかったのだ。何故人が人をあのような目で見ることが出来るのだ……)
それは思えばヤスフェの心はどうしようもない悲しみで心が凍てつき、砕け折れそうになる。
ヤスフェはわずか十二歳にして人間という生き物の救いようのない愚劣と冷酷、この世界は愛や喜びなどではなく欲望と悲惨という原理で支配されているのだと思い知らされた。地獄とは死後に赴く世界なのではなく、今生きる世界がまさに地獄そのものなのだろう。
ヤスフェは真っ先に買い手に選ばれた。ヤスフェは同世代の少年達の中でも群を抜いて背が高く強靭な肉体を有しており、また目鼻立ちも秀麗だったからだろう。
ヤスフェはそのまま他の奴隷や交易品と一緒に船に乗せられた。そこで血を分けた兄弟達と別れることになったのだ。別れを述べる事さえ許されず、手枷足枷(てかせあしかせ)をはめられたまま牛馬のような扱いで船に放り込まれた。
生まれて初めての航海は過酷そのものだった。奴隷市場まで歩かせられたあの行進をも上回る責め苦であった。
手枷足枷をつけられたまま窮屈な船倉で身動きが出来ず他の奴隷達と身を寄せたまま、すさまじい吐き気に襲われ続けられねばならなかったのだ。
幾度か船は港に停泊して交易し、食料や水を補充したようである。
しかしヤスフェはその様子を確認する気力さえ湧かなかった。肉体は猛烈な吐き気と飢え、渇きに支配され身を起こすことさえ出来なかった。
どれ程航海は続いたのだろう。ヤスフェはひたすら地獄の責め苦に等しいこの日々が早く終わることを故郷の神々に祈り続けた。
そして遂にその日は来た。過酷な航海に耐えきったヤスフェとその仲間達はようやく港から降ろされたのである。










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