第27話  衝動

文字数 3,104文字

村重は自室にて時を忘れて執拗に茶道具を愛撫していた。唐草文染付茶碗、「荒木高麗(あらきこうらい)」にかの大茶人、武野紹鷗(たけのしょうおう)が所持していた茶壷である「兵庫壺(ひょうごつぼ)」。
いずれも茶を嗜む者にとっては垂涎の的である天下の大名物であり、一国に匹敵する価値を持つ至宝と言って良い。
「これらの茶道具を有する儂を羨まし気に見つめるあ奴らの顔といったら、傑作だったわい」
村重は在りし日を思い出し、一人悦に入っていた。
荒木村重、明智光秀、そして細川藤孝。この三人はかつて織田傘下の武将の中では教養、文雅に通じた三羽烏と評されていた。
武将としての総合的な力量では明智光秀が、和歌や古典の教養の深さと言う点では細川藤孝がそれぞれ勝っていたかも知れないが、茶人としては明らかにこの荒木村重が筆頭であったろう。
茶道具の目利き、そして所有する大名物の質、数と言う点でも村重は抜きんでていた。
茶会を開けばあの得体の知れぬ明智光秀も、高雅な風貌と振る舞いの中にいかにも文人らしい底意地の悪さを秘めた細川藤孝も村重が披露する大名物が放つ美に圧倒され、言葉を失っていた。
そして村重の魁偉な風貌からはとても想像できぬ流麗な点前、茶の奥義を極めようとしている圧倒的な力量に感嘆し、首を垂れたものであった。
「茶会を開いたのはいつ以来であったか。また開ける日は果たしてやって来るのか……」
村重は口内に広がる茶の渋み、美味さと大名物と己の点前の放つ美に感動する客達の顔が無性に懐かしく、狂おしいまでに欲っする様になっていた。
食料はともかく、水にはまだ余裕があるのだから、茶を立てることは可能であろう。
いや、むしろ絶望にあえぎ自暴自棄になろうとしている重臣達の心を癒し、つなぎとめる為にも茶会を開くべきなのかも知れない。
「だがそれではつまらぬ。あの者共は茶の心得も教養もまるで不足しておる。この村重の持つ大名物や点前を披露したところでその価値が理解出来ぬのだから、所詮は豚に真珠だわい」
この村重の茶を味わう資格があるのは天下広といえどごくわずかであろう。明智光秀、細川藤孝のような武人として抜きん出た力量と豊かな教養や文藻を併せ持つ文武両道の士。あるいは今井宗久(いまいそうきゅう)津田宗及(つだそうぎゅう)、そして千宗易(せんのそうえき)の「天下三宗匠」と呼ばれる大茶人達。
「彼らともう一度茶の湯に興じたい。いや、叶う事ならば、残りの人生全てを茶の湯に浸って過ごしたい」
村重は心からそう願うようになっていた。
「信長に謀反したのは完全に間違いであった。何故儂はあのような愚かな真似を……」
村重は悔いた。心から己の軽率さを悔やんだ。何とかして己の過ちを修正出来ないものだろうか。
「こうなったら今からでも遅くはない。信長に、いや上様に降伏するか……?」
やはりそれはあまりに虫が良すぎる考えであろうか。ノブナガの兵の多くを討ち取り、あまつさえ織田家の嫡男である秋田城介信忠の陣に夜討ちをかけてあと一歩で首を獲るまで追い詰めたのだ。
「よくもぬけぬけと降伏などと、恥知らずめが!我が貴重な将兵達を数多死に追いやり、その上我が嫡男の面目を汚した罪は万死に値する!」
と、ノブナガは激昂し、鋸引きの極刑に処すであろうか。
「いや、かえって儂の武勇への評価を高め、これからも必要とすべき男だと思っているやも知れぬ。上様はそう言う御方じゃ」
おそらくいまならまだ間に合う。いま降伏したら、罪を許されて再び織田家の武将として重用される可能性は十分にあるだろう。これまでもノブナガは一度の謀反ならば必ず許してきているのである。
「だが許されたしても儂はどうなる?罪を償わせる為、諸将らからの信頼を取り戻せる為と上様は以前よりも容赦なく儂を働かせ、戦へと駆り立てるであろう。どのみち儂にはもう茶の湯に浸り、風流を楽しむことは許されぬということか……」
村重は以前のように武功を得ることに、己の武将としての卓越した器量に価値や喜びを見いだせなくなっていた。
武略を尽くして敵陣を破り、己の天稟の武勇を振るって多くの者を殺めたところで何が得られるというのであろうか。
確かにその瞬間は誇りに満たされ、血肉が沸き立つ快感を貪ることが出来る。男として、武人として己は傑出しているのだという喜びで脳髄が痺れるような感覚を得ていたのも事実だ。
「だがそのような喜びはほんの一瞬に過ぎぬ。後でやって来るのは殺生という人として最大の罪業を犯しているという怖れとむなしさだけだ。亭主として作意をこらし、客たちと一座建立する喜びに比べたら、まさに塵芥に等しき物よ」
ならばどうするか。茶人として風流に浸り生きていくには、武人そのものをやめるしかないのではないか。
しかしそのようなあまりに身勝手な振る舞いを重臣達が、すきっ腹を抱えながら籠城している兵卒達が許すはずもない。ならば……。
「馬鹿な儂は何を考えているのだ。そのような愚かな、恥知らずなことを……」
村重は脳裏に浮かんだある考えに愕然となった。
「そんなことをすれば儂は前代未聞の恥知らず、武人にあるまじき卑劣漢として天下の者共から憎悪され、痛罵されるだろう。おそらく千載の後まで悪名を残すことになるわ」
村重はその並外れた大きな手で己の蓬髪をかきむしった。
「いや、己の身の事だけを案じてどうする。儂の為に必死に戦ってくれてる重臣達、兵卒共をまず守らねばならぬではないか。それに家族たちだ。儂がいなければあの者達はどうなってしまうのだ」
村重は最愛の家族を思った。
「たし……」
村重の脳裏に掌中の珠のように愛しんでいる側室の顔貌が浮かんだ。
「あれ程美しい女子は今の世において他におるまい。かの唐朝の玄宗皇帝を惑わせた傾国の美女、楊貴妃に例える者もおるが、たしの美しさはそれ以上に違いないわ」
村重はたしの白く艶やかな肌に華奢な肢体、そして小ぶりながら形の良い乳房とその秘所を思うままに堪能出来た日々を思い返した。
村重の荒々しい愛撫に必死に耐えるその健気で繊細な表情にさらに男としての支配欲と喜びを刺激され、日に五度も己の精を放出することも珍しくなかった。
たしはこの時二十一歳。まさに花の盛りの美しさであった。
「二十歳以上も年下のあれだけ美しい女子を我が物に出来たのも、全ては儂の武人としての器量と武勲があればこそ。武人を捨てるということはたしをも捨てることになるのだ。あの女子を捨てるなど絶対にあり得ぬ」
村重はたしの白く美しい顔とその肢体を思い描いて必死に武人を捨てて茶と風流に生きたいという衝動に抗った。
だがまた別の声が村重にささやくのである。
「花一時、人一盛りと言うではないか。花の命は短い。彼女の美しさの盛りはあと数年に過ぎぬ。そのたった数年の為にお前は残りの人生を戦と殺生に明け暮れて苦しみながら過ごすのか?全く愚かしいではないか。大名物の美しさ、価値は永遠であり、一座建立の喜びはお前の生涯を最後まで満たしてくれるのだぞ。それに女などいくらでもいる。たしに匹敵する若く美しい女子にもまた出会えるやも知れぬではないか」
その余りに卑しく浅ましい声をかき消すべく村重は獣の如く吠えた。
「違う、違う!儂が愛しているのはたしの若く美しい肉体だけではない。あの女子の気立ての良さ、常は控えめながらも凛とした振る舞いに心底惚れておるのだ。儂とたしは魂と魂で結ばれておる」
村重は叫びながら自室から飛び出た。このまま一人籠っていては全てを捨てるという衝動に耐えきれず、致命的な過ちを犯してしまうだろう。
「……!!」
その時、村重の脳裏にある考えが閃いた。この有岡の窮状を打破する為、そして武人としての意地を貫くにはこれしかあるまい。
村重は重臣達に集まる様声を上げた。

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