第59話  守護神の名

文字数 1,752文字

覚衛門から帰れと言われと言われ、キリスト教徒達は困惑の表情を浮かべた。
彼らは宣教師カブラルの教えに従い、汚れた悪魔を祀る神社仏閣を破壊し、悪魔に仕える司祭をこの地より必ず追放するという決意を固めていたのである。
その決意に背いてしまっては、あの厳格極まりないカブラルの異国の言葉での激しい罵倒と、冷たい蔑みの視線を浴びることになるだろう。それだけは何としても避けたい。
だが武士である覚衛門の命令に背くこともまた許されないことであった。全知全能の創造主デウスの前では俗世での身分の差など無く人間は皆平等であるというのが救世主キリストの教えである。
だがそうは言ってもこの封建の世に会っては武士とそれ以外の身分は厳然としてあり、その差はやはり到底乗り越えることは出来ない。                                  さらにはつい先程凄まじい武勇を発揮して悪魔の化身である黒い巨漢を圧倒した覚衛門の威に逆らうなど、不可能と言うしかなかった。
キリスト教徒達は邪教の神官と悪魔に化けて宣教師に侍っていた黒い巨漢に憎々し気な目を向けながら、大人しくこの場から去って行った。

「さて……」
覚衛門は太刀を腰間の鞘に納めながらゆっくり叔父に向き直った。
「ふん、このわしをあの愚か者共から守ったつもりなのか?」
その老人は鼻を鳴らしながら失笑を浮かべた。
「逆ですよ。私は叔父上からあの者達を守りたかったのです」
覚衛門は先程の戦いの興奮から完全に冷めたらしく、朗らかに笑いながら答えた。
「老いたりとは言え、まだまだ血気盛んな叔父上の事。あの者たちがこの神社を破壊しようとしたら、たちまち斬って捨てたことでしょう。彼らはキリストの教えで結ばれた私の魂の兄弟達です。見殺しには出来ません」
「ふん、ぬかしおるわ」
老人は忌々し気に言い捨て、改めて生まれて初めて見る黒い肌の偉丈夫に見とれた。
「噂には聞いておったが、真にいるのだな。このような墨のように黒い肌の人間が……。それに相当な鍛錬を積んで、合戦にも幾度も出ておるようだな。この愚かではあるが、並ぶ者の無い剣の使い手と称されておる我が甥とあそこまでやり合うとは」
そう言って老人は地に落ちたままのヤスフェのタルワールの折れた刀身を拾い、その造り、鍛えを隅々まで鑑賞した。
「重いの……。この重さの剣をああまで軽々しく振り回すとは。全く人間離れした膂力と言うしかない。この剣は切れ味は左程でもないようだが、この重さにお主の力が加われば、人の体などひとたまりもあるまい。大太刀の如く、合戦場なら無類の威力を発揮しよう」
老人はヤスフェに真直ぐ視線を向けて来た。
「それにしても、お主は伴天連共の僕としてこの国にやって来たのであろう。何故伴天連に迷わされておるこやつと剣を交えたのだ?あの者共と共にここを破壊しに来たのではないのか」
「先程覚衛門殿にも言いましたが、私は宣教師の護衛の任に就いていますがキリスト教徒ではありません」
ヤスフェは再び宣言するように言った。
「彼らキリスト教徒が他宗の神々を悪魔や邪神と貶め、他国の伝統文化と信仰を破壊し、カトリックの教えを強要することに心からの怒りを覚えています」
「ほう……」
老人は感心したような表情を浮かべた。
「そしてこの日本で信仰されている神仏について学びたくおもっています。何よりここで祀られている神に呼ばれているような気がしてならないのです。インディア、つまり貴方達が天竺と呼ぶ国で戦っていた時から私を守ってくれている名も知らぬ神とは、ここで祀られている神なのではないかと……」
「それは面白いの」
老人は破顔し、すぐ真顔に戻った。
「申し遅れたが、それがしは時任兵衛(ときとうひょうえ)と申す。今は武士の身分から退き、この神社の神職を務めており申す」
兵衛はヤスフェが惚れ惚れする程の毅然さと典雅さが一体となった見事な礼をした。
「それにしても、お主は天竺から来られたのか。それなら確かに彼の地においてこの我らの神の加護を受けていたことは頷ける。この武士の守護神である神は元は仏教の守護者である天部の一尊として天竺からこの国に渡って下されたのだからな」
「……その守護神の名は何と言うのですか?」
ヤスフェは震える声で尋ねた。
摩利支天(まりしてん)
兵衛は誇らしげに答えた。


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