第33話  荒木久左衛門の選択

文字数 3,213文字

「久左衛門は信長が尼崎城と花隈城を明け渡せば我らを助命すると約束したと申しているようです。ですが信じてはなりませぬぞ。これは罠に違いありませぬ」
父に似た猛々しい顔貌に猜疑心を露わにして言い放つ我が嫡男、村次に村重はぼんやりと視線を向けた。
武勇に優れた自慢の嫡男であったが、この頃は村次の一向に衰えぬ血気、猛気が酷く疎ましく、そして腹立たしく思えた。
(こやつは弓馬剣槍の技を磨くことにのみ執心し、茶の湯にも歌にも一向に興味を示さぬ。ただの猪武者ではないか。それでも我が子か)
今になって我が嫡男の器量に失望した村重は村次から視線を逸らし、傍らに置いていた荒木高麗の茶碗を手に取って愛撫した。この手ざわり、目にはえる琵琶色の光沢を楽しむこの時が至上の快楽であった。それ以外は全てつまらぬ些事としか思えなかった。
「父上、聞いておられるのですか!」
村次は癇性の強い性格を露わにし、怒鳴った。父の手から茶碗を奪い、叩き割ってやろうかと思案したことであろう。
それを察知した村重は殺気と怒気をその双眸に満たしながら村次を睨み付けた。
(やってみよ。汝の首をねじ切ってくれようぞ)
毛利に援軍を乞う為と称して尼崎城に来たものの、以前とは別人のように腑抜け同然となっていたはずの父が一瞬にして変貌し、鬼の王の如き猛威を見せつけるのを目の当たりにし、村次は震え上がった。
「久左衛門殿は敵に寝返ったと見て間違いないでしょう。そもそも摂津守殿の指図を仰ぐのに三百人もの兵を引き連れて来るのがおかしい。城門が開いたら斬りこんで我らの首を挙げよと信長より命じられているのではなかろうか」
沈黙した村次に代わって毛利家の御番衆の一人が言うと、他の毛利家、本願寺、さらに荒木家の武将達も揃って賛同した。
彼らは信長が降伏を許すと言っているのは詐術である、必ず我らを根切にするつもりであると頭から信じているようである。
だが村重は違った。
(偽りではあるまい。信長は、大殿は本気で我らを許すつもりであろう)
村重はそう確信した。だがノブナガの寛容さ、己に対する評価と期待に対して感謝する気持ちは少しも生じなかった。 
むしろ魂が震えあがるまでに恐怖した。
(大殿はそれ程までに我が武勇を欲しておられる。この恩に報いてみよ、もっとその天稟の武勇に相応しい武功を挙げよと天下布武を成し遂げるまで、儂の武勇を絞り尽くし、しゃぶり尽くすつもりであろう。そうすることが儂の為であると信じて疑わぬのだ。大殿はそういう御人なのだ)
村重はノブナガの面長の引き締まった顔貌、その鋭い眼差しに宿る硬質な、それでいて灼熱とした光、まさに今刀鍛冶の手によって誕生したばかりの刀剣の如き光をありありと思い描いた。
その光が示すのは曇りなき武への信仰であり、飽くことなき戦への渇望なのではないか。
(大殿はこの日の本の争乱を平らげた後、唐土へと攻め込むつもりだと聞いたことがある。おそらくそれは事実で、もう大殿の中では決まった事なのだろう。儂を許そうとするのもその為。この儂を唐国の軍勢との戦の先鋒とするつもりなのだ。今ここで大殿に屈し、その軍門に降れば、謀反の償いとして儂は命果てるその時まで無限の修羅地獄へと駆り立てられることになる)
そうなったら最後、もはや二度と今生において心の潤いを得ることは出来まい。茶や詩歌、能などの芸事の深奥を極めるという人生の喜びを味わうことは許されず、何の恨みも無い異国の兵との救いの無い戦で心身を酷使し続けねばならない。
(そんなことは絶対に嫌だ。御免こうむる。儂はもうかつてのように合戦場で己の武勇を振るうことに喜びも価値も見出せぬ。儂は茶を極め、美に浸りながら残りの人生を過ごしたいのだ)
その為にはここで降伏することは断じて許されない。勝機など万に一つも残されてはいないが、あくまで抗戦せねばならない。
しかしそうやってあくまで孤軍で抗い、戦い続けることによってノブナガの村重の武勇、肝力に対しての評価はさらに高まり、何としても降し、許そうと考えるのではないか。
(そうならぬためには、儂は大殿を深く失望させねばならぬ)
村重の思考はかつては考えもしなかった方向へと走り始めた。
(大殿だけではない。大殿との戦いの為に儂を必要とする毛利家や本願寺からも最早必要とされぬよう、儂は徹底的に武人に相応しからぬ振る舞いを、卑怯未練な行いをせねばならぬ。そう、武人としての生と決別し、茶人として生きていく為には徹底的に惨めに、卑劣に、畜生へと身を堕とさねば……)
永遠に戦い続けねばならない修羅は敵味方の血を呑んで渇きを癒すしかないが、畜生ならば茶を(すす)ることは出来よう。覚悟は決まった。
「そうじゃ、信長に降伏しては身の破滅ぞ。徹底的に抗うのだ」
村重は(まなじり)を決して叫んだ。尼崎城に来てからの村重の態度に失望していた一同であったが、突然猛気を取り戻したかに見えた城主を見て目を見張った。
「そなたらが申す通り久左衛門は敵に通じておるに違いない。絶対に門を開けてはならぬ、追い返せ。奴らが退かねば鉄砲を撃ちかけても構わん」

再び戦う姿勢を取り戻したように見えた父の姿に驚喜した村次は勇ましい足取りで望楼に登って高々と声を張り上げた。
「久左衛門、帰って信長に伝えい。我が父、荒木摂津守以下、我らは汝の軍門には断じて下らぬ。最後まで抗い続け、有岡武士の意地を見せつけてやるとな」
「な、な、何と申されまする!」
見えざる巨大な鉄槌に頭を打ち付けられたような衝撃を受けた久左衛門はよろめきながらも悲壮な声で主君の息子の説得を試みた。
「断じてなりませぬ、なりませぬぞ。最早戦は終わり申した。これ以上抵抗を続ければ、恐ろしいことになりますぞ。せっかくあの信長殿が怒りを収めてこうまで寛大な処分を下されたのです。その慈悲の心を足蹴にするような真似をすれば、信長殿は激怒するは必定。そうなったら有岡城にいる多くの人質はどうなるか……」
「……」
「おそらくお館様も村次様も城内に多くいる毛利や本願寺の者共に惑わされているのです。あの者共の言う事などに耳を貸してはなりませぬぞ。奴らは荒木家のことなどどうなっても良いと考えているに決まっております。己の家の為、荒木家を盾にする事しか……」
「ええい、黙れ黙れ、裏切り者めが」
若く血気溢れる村次から発せられた言葉に久左衛門は仰天した。
「う、裏切り者ですと?!」
「そうじゃ、汝は信長におめおめと下り、その上我ら親子の首を獲って来いと命じられて来たのであろう。褒美に摂津一国を与えられるとでも約束されたのか。見下げ果てた奴めが」
「ち、違いまする!誤解にござる!拙者は決して……」
「ええい、これ以上は聞く耳も語る口ももたぬ。今すぐ失せよ。失せねばこうなるぞ」
村次は左右の銃兵に発砲を命じた。流石に射殺することは自制し、久左衛門から数間離れた地面に着弾させた。
勇猛であるが、思い込みが激しく容易に他者の言葉を受け付けない村次の頑迷な気性を知っている久左衛門は説得を断念するしかなかった。
(一体どうすれば……)
尼崎城から離れた丘で三百の兵と共に休息しながら久左衛門は頭を抱えた。
(どの面下げて、有岡城に帰れというのだ。これではこれまで受けた大恩に背いて謀反を起こし、一年もの長きにわたって抗い続けた我らを許すと申してくれた信長殿や、怒りをこらえて折り目正しく我らに接してくださった津田信澄殿にとても顔向け出来ぬ。我らに武士たる資格などあるはずがない……)
武士としての意地も誇りも無残に砕け散り、脳が麻痺して何も考えることが出来なくなった久左衛門はのろのろと甲冑を脱ぎ、大小の刀を地面に投げ捨てた。
そして亡者のような呆然とした足取りで有岡城とは反対の方向へと歩み始めた。
光を失った眼で城代を見守っていた三百の兵も、まるで一斉に催眠術にかかったように武装を解き、久左衛門を追って歩み去って行った。






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