第49話  溝

文字数 2,810文字

こうしてヤスフェはイエズス会の護衛として雇われ、彼らの伝道の旅に同行することになった。
ヴァリニャーノからは、
「やはりカトリックに改宗せぬ異教徒を護衛として雇うことは、他のイエズス会士が決して許さぬであろう。実際に洗礼は受けなくていい。だが他の者達には改宗したということにしておいてくれないか」
と言われた。
つまり信仰を偽れということである。
ヤスフェは強い不満を感じたが、この時ばかりは仕方のないことだと割り切るしかなかった。
「私は何としてもジャッポーネに行かねばならないのだ」
しかし元々剛直で潔癖な気性の持ち主であり、嘘偽りが苦手なヤスフェである。彼が本当はキリスト教カトリックを信仰しておらず、多神教徒であることは他のイエズス会士にはすぐばれてしまったようである。
しかし上司であり、最高責任者であるヴァリニャーノが見て見ぬふりをしている以上、責め立てることもできない。
その為かえって彼らのヤスフェへの怒りと軽蔑は深刻なものへとなっていったようである。
無論ヤスフェは彼らの怒りと憎しみの視線など歯牙にもかけなかった。
そのようなヤスフェの態度がさらにイエズス会士達の怒りを駆り立てる結果となってしまった。
「ヴァリニャーノはあのようなつまらぬ者共とは訳が違う。人間としての風格が遥かに上だ」
ヴァリニャーノがヤスフェの信仰についてうるさく言わないのは、伝道の旅に同行することによっていずれ必ず改宗するだろうと確信しているから故の余裕であるのかも知れない。
だがそれと同時に苦渋と悔悟に満ちた過去によって否応なく備わった柔軟な精神、包容力もその理由なのだとヤスフェは受け取った。
最初の目的地であるマカオへ向かう航海の途上でヴァリニャーノはヤスフェに何故己がイエズス会に入り、唯一絶対の神へ身を捧げる覚悟を決めたかを語った。
「私は若い頃は放蕩に明け暮れていたよ。あの頃の私は堕落しきったどうしようもない男であった」
ナポリ王国の名門貴族の家に生まれたヴァリニャーノは法学を学ぶためにパドヴァ大学に入学したが、学問に身を入れることはなかった。
その類まれな美貌と高貴で洗練された振る舞いによって多くの女性を引き付けてしまったが為、ヴァリニャーノは女遊びを覚えてしまったのである。
そして素人女には満足できなくなったヴァリニャーノは悪所に通いつめるようになり、毎日娼婦と遊び戯れ、時には複数の女性と乱交に耽り、酒を浴びるよう飲んだ。
そして女遊びだけでは酒毒と若い活力を発散出来ない為に喧嘩に明け暮れ、刃傷沙汰も常という有様であった。
「そしてあろうことか、私は情人の一人を斬りつけ、重傷を負わせてしまったのだ」
ヴァリニャーノはその灰色の瞳に涙を浮かべながら言った。
「あの女性が私以外の男に通じていたからだ。ふっ、全く身勝手な話だ。私自身、彼女以外に複数の情人がいたのにな。彼女を裏切り者だと責める資格などあるはずが無い。いや、あの時私が激怒したのは彼女に対して嫉妬したのではない。男としての誇りが傷つけられたからだ。私はうぬぼれきっていた。私以上の美男子が、私以上の男などいるはずが無いと本気で思っていたのだ。全く何という思い上がり、愚か極まりない妄想であっただろうか。叶う事なら、この手であの頃の私を絞め殺してやりたい」
「……」
「そして妄想に染まり切って理性と言うものを完全に失っていた私は気がついたら刃で女性の顔や体に幾度も斬りつけていたのだ。そして私はヴェネツィアの監獄に入れられた。後悔と罪の意識で身が切り裂かれるような日々だったよ。放蕩に明け暮れて名誉ある家名を汚して家族を失望させ、用意されていたはずの輝かしい未来を台無しにしてしまったこと。あろうことか非力で抵抗する力など無い女性の顔を斬りつけ、一生残るであろう深い傷を負わせるという人としてこれ以下は無い最低極まる愚行。もう死ぬことでしか罪を償うことは出来ないだろうと思った。そしてそこで回心が訪れたのだ」
それまでの愚かさと罪への自責の念から地獄の責め苦を受けていうようなヴァリニャーノの表情が一変した。
真の喜びに満ちた至福の表情であった。
「私は唯一絶対のデウスの声を確かに聴いた。肉欲と傲慢という卑小な罪とは決別し、魂の浄化に至れ。それこそが真の喜びであると。そして己の罪を償う為に真の信仰を広め、この世を覆う闇を払うことにその身を捧げよと」
そしてヴァリニャーノはヤスフェの逞しい肩に手を置いた。
「お前にもきっと必ずデウスの声が聞こえる時が来るはずだ。そうして己の過ちを悔い改め、生まれ変われることが出来るはずだ。私はそう確信しているよ」
「……」
ヤスフェはこの場ではあえて反発しなかった。ヴァリニャーノが純粋な好意、イエズス会の司祭としての一点の曇りなき使命感から言っているのがはっきりと分かるからである。
成程、他の若いイエズス会士、白人キリスト教徒としての優越感に満ち溢れ、異教徒への憎悪、有色人種への蔑視を隠そうともしない者共とはヴァリニャーノは人間としての格が違うのは確かだろう。
それはヴァリニャーノが人間は迷い苦しみ、罪を犯さねば生きていけない存在であることを身をもって知っており、だからこそ他者を責め立てるのではなく許し、慈しまねばならないと心から信じているからに違いない。
しかしそれはつまりヴァリニャーノにとってキリスト教以外の信仰を持つということは、女遊びと酒で身を持ち崩し、他者に暴力を振るうことと全く同様の過ち、愚かな行為でしかないという揺るぎない価値観を持っているということなのだろう。
そしてヴァリニャーノがヤスフェに対して抱くのは彼がキリスト教の信仰に目覚めないこと、そして有色人種に生まれたことへの憐れみであり、導き救わねばならないという使命感なのではないのか。
(つまり、私とこの人物は真に分かり合い、対等の存在にはなることは決してないということなのだな)
ヤスフェはヴァリニャーノという人物は命を賭けて守る価値があると信じて彼の護衛を引き受けた。
しかしここに来てどうやらこのダークブロンドの巡察史とは決して埋めることが出来ない余りに巨大で深い溝があることをはっきりと思い知らされることとなった。
(ヴァリニャーノは微塵も動かぬ唯一絶対のデウスへの信仰を持っている。私の信仰を認めることは決してないだろう)
ヤスフェが信じる神。それは名前も分からぬ神である。決してデウスなどではない。ヒンドゥーの神々、世界を維持するヴィシュヌでも無ければ破壊神シヴァ、殺戮の女神カーリーでも無い。
だが戦うことが宿命づけられた己を加護し、力を与えてくれる神聖な存在を常にはっきりと感じているのである。
(その神の正体を私はジャッポーネで知ることになるだろう。そうだ、間違いない)
ヤスフェは己の依頼主への失望を感じると同時に、彼の地で真の信仰に目覚めることへの確信をより一層深めた。






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