第44話  ハブシ

文字数 2,388文字

「暑い……」
過酷な船旅で精魂尽き果てたヤスフェの肉体に容赦なく凄まじい熱波が降り注ぐ。
ヤスフェが生まれ育った大地も厳しい気候であったが、この地の暑さは全くそれ以上であり、尋常ではなかった。
四方が炎の壁に囲まれているのではないかと疑われる程であった。
そして行きかう人々の肌は褐色で、男性は髭が濃く多くは奇妙な布を頭に巻いており、己の故郷とは別の人種であることは明らかであった。。
地獄の責め苦同然の長い旅の果てに辿り着いたのはインディアという国であることをヤスフェは後で聞かされた。
ヤスフェはすぐに故郷からの長い旅でこびりついた汚れを行水で落とすよう命じられた。
そして今までの人生で最も充実した食事を与えられた。故郷の味付けとは全く違う、舌がひりつく程辛い料理であったが、不思議に美味であった。
ヤスフェは貪るようにただひたすら喰らい続けた。満腹になるまで食事したのはこれが生まれて初めてだろう。
そして船旅で萎えた四肢に活力が戻る様休息を取り、その後軽い運動をするよう命じられた。
そしてめざましい回復力を見せ奴隷商人を感嘆させたヤスフェは巨大な都市へと連れていかれた。
「お前は果たして運がいいのか、悪いのか」
ヤスフェを導く奴隷商人は言った。
「お前は本来、ハーレムの護衛となるはずだったのだ。そこでならまあまま安穏な生活が出来るだろうが、必ず去勢されなければならない。男の印を切り落とされ、女を抱く喜びを永遠に奪われる訳だ」
「……」
まだ十二歳であったヤスフェにはそれがどれ程の意味を持つのか充分に理解出来なかった。
「だがお前は今まで見たことが無い程並外れた頑強な肉体を持っているようなので、直前でハブシの方が良かろうとなった訳だ。ハーレムの護衛なんぞとは比べ物にならない程過酷で危険だが、武勲次第で奴隷身分から解放される機会も多いと聞く。まあ、励むことだな」
物静かで従順なヤスフェに好感を持ったのか、その奴隷商人はヤスフェを励ますように言った。
「ハブシ……」
初めて聞く言葉であるが、それは奴隷の身分の中でも特殊な存在であることはヤスフェにも理解出来た。
(俺は奴隷になってしまったのか)
天空には灼熱の太陽が輝き、燦とした陽光が降り注いで道行く人々の喧噪も極まっているが、ヤスフェの眼前の世界は一瞬にして暗黒に覆われた。
(何故俺がこんな目に合わなければならないんだ。俺が何をしたと言うんだ)
奴隷という身分がどのような存在なのか、幼いヤスフェも充分理解している。
人としての自由や権利を一切剥奪され、道具、あるいは家畜同然の身となって働かなければならない惨め極まりない存在。
そのような存在へと己はなってしまったのだ。
(何故だ、何故だ)
己は何もしていない。盗みは働いたことは無く、人を傷つけたことも無い。
罰せられなければならないことは何一つしていないはずだ。物心ついた時から、ただひたすら朝から晩まで働き、文句ひとつ口にしたこともない。
両親や祖父と祖母に言いつけに逆らったことも無く、幼い弟達の面倒もちゃんと見て来た。
今まで生きて来て、何一つ悪いことはしていないと胸を張って言える。
それなのに何故眼の前で家族を殺され、弟達とも別れを告げることもなく引き離され、自由や尊厳を奪われなければならないのか。
何故罪を犯したことの無い己が、悪徳と強欲に満たされた非人間的な存在、人の皮を被った悪鬼としか思えない奴隷商人などに支配されなければならないのか……。
「こんなことは間違っている!」
ヤスフェは叫びたかった。眼の前の奴隷商人に、いや世界中に跋扈しているであろう全ての奴隷商人に、
「何故こんな残酷なことが出来るのだ。お前たちは今すぐこんな悪魔的な所業はやめるべきだ」
と言ってやりたかった。
「……」
だが、十二歳にしては驚く程発達した知性、成熟した精神を持つヤスフェは叫んだところで現実は何一つ変わらず、ただこの奴隷商人に殴られるだけの結果にしかならないことを瞬時に悟った。。
「……武勲次第で解放されるって言いましたよね」
「うん?」
それまでほとんど語り掛けてこなかったヤスフェが振り絞るように言葉を発したので奴隷商人は目を見張った。
「奴隷身分から解放される機会もあるって……」
少年の己の命と未来をかけての問いに、欲望と悪徳に支配され人としての良心などとっくに放棄したはずの奴隷商人も真摯に答えねばならないと思ったようである。
「ああ、言った。本当の事だ。ハブシってのは軍事奴隷のことだ。己の命を的にして戦うことがその務めな訳だから、当然死ぬ可能性は極めて高い。だが生き残って手柄を立てて奴隷身分から解放された奴も多くいるのも確かなことさ。そうなれば元ハブシの戦士ってのは箔がついて仕事には困らないって話だぜ。貴人の護衛に傭兵ってぐらいにな。しがない奴隷商人の俺なんぞよりもよっぽど稼げるようになるかもな」
「……」
「まあ、もっともお前は既に体つきは一人前だが所詮はまだ子供だ。当分戦に出て手柄を立てることは出来まいよ。数年の間は単純な仕事を与えられてその合間に戦いの為の厳しい訓練を受けることになるだろう。ハブシはその見習いもいずれ戦う為に食い物は充分与えられるって話だ。良かったな、小僧」
奴隷商人の言葉が単なる気休めなどではないと信じたヤスフェは決然と、まっすぐ前を向いた。
先程まで眼前を覆っていた暗黒は霧消していた。大地を煎るが如き日光が降り注ぎ、炎熱の風が吹き荒れ道行く人々は苦悶の表情を浮かべている。
今から己はこの酷暑の世界で過酷な生を歩まねばならない。常に我が命を賭けて細心に歩まねば容易に踏み外してしまう道なのだろう。しかし少なくともそれは全く未来が閉ざされた完全なる暗黒の道ではない。
自由という力強い光が前方に確かに灯っており、必ずそこまでたどり着かねばならないのだとヤスフェは己に言い聞かせた。

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