第18話  塚口城

文字数 2,496文字

知将高山右近と猛将中川清秀を降らせたノブナガは、自慢の両翼を失い最早飛翔することも出来ずに地に這いずるしかない飢鷹同然の身となった荒木摂津守村重に止めを刺すべく約五万もの大軍を率いて有岡城に迫った。
「忘恩の痴れ者めが……」
そう呟いたきり口を閉ざし、その鋭い双眸に異様な光を湛える主君を見て、側近達は震え上がった。
(殿のこの御顔はあの時と同じだ。そう、比叡山焼き討ちと伊勢長嶋の一向宗門徒ら二万人を悉く焼き殺した時と……)
ノブナガの憤怒、潔癖なまでの正義感、そして天下布武への迷いなき強固な意志が再び驚天動地の出来事を引き起こすに違いない。
確かな予感に早鐘のように心臓が打ちながらも側近達、文武に優れた英俊達は主君の意を叶えるべく文字通り寝る間もなく働き、奔走した。
天正六年十一月、孤立した荒木軍から兵の逃亡が続出していることを細作の報告で知ったノブナガは明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益ら主将らに出撃を命じた。
地の利を得ているにも関わらず一向に士気が上がらぬ荒木軍の先鋒部隊は織田軍きっての用兵巧者達が率いる精鋭部隊には到底歯が立たず、一蹴されてしまう。
「有岡武士共め、何とも歯応えが無いことよ。所詮は恥知らずの謀反人に付き従う愚物共よな」
幾人もの荒木方の武士の首をあげ、いよいよ戦場の狂気に心魂を染め上げた織田方の将兵は有岡城周辺に火を放ち始めた。血の滴る生首を腰に下げながら炎を手にして跳梁(ちょうりょう)し、荒れ狂う将兵の姿はまさに地獄の悪鬼そのものにしか見えなかっただろう。
突風が吹き荒れて炎を煽り、やがて天地を焼き尽くすのではないかと疑われる程の炎嵐となって有岡の地に吹き荒れた。
城の周囲の人家、神社仏閣、藪などは炎の嵐に飲み込まれてことごとく焼き尽くされ、灰と化していった。
ノブナガは物見櫓から有岡の被造物が灰となり、冷たい冬の風によって吹き上げられて蒼天を濁らせていくをのをただ黙然と見つめていた。常日頃は極めて軍律に厳格で民草に危害を加えることを許さないノブナガであるが、この時ばかりは将兵の暴挙を制止しようとしなかった。
それだけ謀反人、荒木村重への怒りが深刻であったと言う事だろう。
十二月、蒲生賦秀は丹羽長秀(にわながひで)蜂谷頼隆(はちやよりたか)と共に塚口城に陣取った。この地は最初、寺内町として発展したらしい。しかし戦国乱世の幕開けとも言うべき応仁の乱の際に一揆衆が立て籠り、敵の攻撃に備えて土塁と濠をめぐらせ、城に匹敵する防衛施設へと変貌させたという。
「何とも凄まじいですな……」
賦秀に付き従っている勝成は呆然として言った。これまで騎士として、傭兵として幾度も凄惨な戦場を見て来たが、これ程の焼き討ちはかつて見たことが無かった。
「おそらく、これから先もっと凄惨な光景を目にする事になるであろう。心しておくがよい」
蒲生忠三郎賦秀は毅然として言った。その秀でた顔貌には敵方への慈悲を充分に持ちながら、それをあえて抑え込む鋼の如き戦への意志があった。
(この御方もまた、ノブナガと同じ面をお持ちと言う事か。必要とあれば、寛容にも非情にもなれるのだろう」
勝成は粛然として頭を下げた。
「蒲生殿、山科殿」
声をかけられて振り返って見ると、そこには西洋の装飾を取り入れた甲冑を纏い、金の十字架の前立ての兜を被った高山右近がいた。
「おお、ジュスト殿」
勝成は喜色を浮かべながら駆け寄り、その長い両手を広げて包み込むようにジュストを抱きしめた。
他のサムライであれば驚き怒り、容赦なく払いのけただろうが、西洋人の宣教師との付き合いが深いジュストはこの挨拶には慣れている為、笑顔で勝成の背中を叩きながら受け入れた。
「山科勝成殿。全ては貴殿のおかげです。宣教師様方と我が高槻の信者達が救われただけではなく、信長様は私の領地を加増してくださることをお約束してくださいました。荒木殿の人質となっている我が息子と妹もまだ無事のようです」
「全てを捨てる覚悟をした清き貴殿にデウスが恩寵をお下しになられたのでしょう」
勝成は心からの祝福を述べた。
「高山殿も我らと共に塚口からの攻め口を担当するという事ですかな?」
賦秀が問うと、ジュスト右近は静かに頷いた。その白い顔貌には己自身を責め、蔑む色が微かにあった。やはりかつての主君を攻めねばならないことに忸怩(じくじ)たる思いがあるのだろう。
「では、共に丹羽様の元に参りましょう」
塚口の攻め口の主将を務める丹羽長秀は織田軍の最古参であり、ノブナガから「我が友であり、兄弟である」と言わしめる程の深く固い信頼を得ている人物である。
柴田勝家、佐久間信盛、明智光秀、滝川一益、羽柴秀吉のように独立した部隊を率いて各地の制圧を担当する方面軍司令官には選ばれていないが、軍務をこなしながら大型船の造船を指揮し安土城普請の総奉行を務めるなど特に行政面において卓越した手腕を発揮している。
その為その地位、権威は五人の方面軍司令官達と全く同格とされており、織田家の柱石とも言うべき存在と言って良いだろう。
その人柄も温厚篤実で君子の風格があり、高山ジュスト右近の複雑な心境を察して心のこもった慰めの言葉をかけ、激励した。
「ほう、蒲生殿は南蛮人を武士に取り立て、仕えさせているのか。何とも酔狂な……」
長秀は勝成を胡乱気な表情で見ていたが、すぐに己の誤りに気づいたようである。
年少の頃からノブナガに付き従って百戦を経て来た武人の眼ですぐに勝成の(たぎ)るような武魂と身に着けた戦技を正確に把握したのだろう。
「荒木方は逃亡と先の敗北で兵が半減しているようだ。だが有岡城は総構えの構造で非常に守りが固い。そしてそこに籠る荒木村重は落ちぶれ果てたとは言え、かつては上様にその武勇と武略を絶賛された程の男じゃ。柴田勝家や滝川一益にも引けを取らぬと言って良いだろう。そのような男が追い詰められて窮鼠(きゅうそ)と化しておるのだ。甘く見て攻めかかってはこちらが痛い目を見るだろう。くれぐれも用心していただきたい」
元より敵を甘く見る油断や増長とは無縁の蒲生賦秀、ジュスト右近、そして山科勝成である。
しかし彼ら以上に慎重で細心な主将の言葉を受け、三人の武者はうやうやしく頭を下げた。







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