第23話  森蘭丸

文字数 2,739文字

撤退したのは蜂谷頼隆の軍勢だけではない。野戦で抜群の働きを見せた蒲生軍も、その他の織田方の諸将も撤退を余儀なくされた。
思っていた以上に惣構えの構造である有岡城は堅固であり、また精密極まりない雑賀衆の狙撃と猛勇を誇る荒木村重の卓抜な防戦指揮によって多くの戦死者が出たからである。
この十二月八日の攻防戦によって織田方は二千人を超える兵を失った。そして死者の中にはかつて村重の元に糾明の使者となって赴いた万見重元をはじめとする多くの近臣がいた。
「……」
報告を聞いたノブナガは怒りを爆発させるかと思いきや、僅かに沈痛な表情を浮かべるのみであった。
「蘭丸よ、余は村重を甘く見ていたらしい」
ノブナガは側に侍する森蘭丸に語り掛けた。
小姓を務める森成利(もりなりとし)、俗称蘭丸はこの時数え年で十四歳。あの万見重元を凌駕すると言って良い玲瓏(れいろう)たること珠玉の如き美貌の少年であった。
だがその幼さが残る顔貌に己の美しさを誇る驕慢さは微塵も無い。持って生まれた聡明さとその後厳しい躾と教育によって身に着けた金剛石の如き自制心、それに討ち死にした父、森可成(もりよしなり)から受け継いだ一途なまでの忠義の心が静かな炎となってその魂を焦がしていた。
「万見殿が討ち死になされたのは無念にございます」
微かに震える声で蘭丸は言った。
万見重元はここ最近になってから己の美貌とノブナガからの寵愛に驕るようになり、狷介な物言いをすることが多くなってきた為に評判の良い男ではなかったが、蘭丸にとっては良き先輩であった。
小姓としての作法、心得を厳しくも的確な指導で叩き込んでくれた恩人と言って良い。
いずれはノブナガの寵愛を巡って競争相手になるやも知れぬ蘭丸に対して内心は兎も角、嫉妬や嫌悪を態度に出すことは無かった。それが共に主君に侍する者としての守るべき節度だと心得ていたからだろう。そう言う意味では万見重元は彼を嫌う者共が言うような狭量な人物では決してない。
「うむ。あの者にはまだまだ働いて欲しかったのだがな。戦場に出したのは余の誤りであった」
そう言ってノブナガは蘭丸を見据えた。
「お前はあの者の仕事の多くを引き継ぐことになろう。励めよ」
「ははー」
蘭丸は平伏し、主君の為、亡き先輩の為己の身命を賭して奉公することを改めて心に誓った。
「それにしても……」
ノブナガは脇息(きょうそく)にもたれながら静かに言った。
「村重が野戦の上手であることは承知していたが、籠城戦においてもここまで巧みに戦うとは思わなんだわ」
「わたくしも、荒木摂津は攻めにおいて真価を発揮する猛将であって、守りに入ったら脆いのではないかと予想しておりました」
「うむ。奴自身が驚いているやも知れぬな。ここに来て己にここまでの武勇、将器があったのかと……」
ノブナガの表情は複雑であった。荒木摂津守村重を見出し、抜擢した己の眼にやはり狂いはなかったと自負するようであり、それ程の恩を与えながら最悪の裏切りで報いたことへの深甚な怒り、そしてその武勇を心から惜しむようでもあった。
(まさか上様は、この期に及んで荒木を許し、再び重用する道が残されていないかとお考えでなのでは……?)
天下布武の悲願の為には天魔の如き残忍苛烈な所業も辞さない主君であるが、その心底には甘いというしかない優しさ寛容さが濃厚にあるのを蘭丸は承知していた。
特に並外れた異能を持つ者、光り輝くような才気を持つ者に魅かれ、溺愛するのが織田信長という破格の英雄の性であった。
この性によって身分や前歴を一切問わずに傑出した才を持つ者を抜擢してきたからこそ、これまでのノブナガの覇業があったと言って良い。
(だが上様はあまりに才を愛する故、その者が持つ気性や欠点を見過ごすことが多い。人の上に立つべき主君にとってそれは美点であるかも知れぬが、同時に最大の欠点なのかも知れぬ)
現に先に謀反を起こした松永久秀も、今この時の荒木村重も確かに人傑と評してよい才知、武勇の持ち主であった。
ノブナガはその才をあまりに愛するが故、彼らが天性持っていた叛骨の性を見過ごしてしまった。いや、あるいは気づいていながらもあえて見ぬようにしていたのではないか。
(荒木摂津の行く末がどうなるかは分からない。成敗されるのか、あるいは許されるのか。だがこれから先も謀反人は必ず現れるだろう。松永久秀、荒木村重と同様の、並外れた才気に叛骨の性を秘めたる者が……)
蘭丸の脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。南蛮の宣教師を思わせる彫りの深い顔立ちの、一際大きい鷲鼻を持ち、既に老境に入っているとは到底思えぬ程の異常なまでの精力にみなぎる異相の男。
(いや、このような考えは己の分を超えているぞ、蘭丸よ。かの御仁はいまや織田家の柱石、至宝と言うべき方なのだ)
蘭丸はあまりに先走った己を叱咤した。
「よし、決めた。力攻めは止めにしたす。兵糧攻めへと切り替えよう」
ノブナガは決然として言った。この切り替えの迅速さ、己の過ちに固執することなく鮮やかに方針を転換することが出来る大胆な決断力こそがこの主君の持ち味である。
「諸将に伝えよ。積極的な攻めは止め、砦を造って有岡城を包囲し、糧道を断つことに専念せよと」
「承知いたしました」
「村重は確かに籠城戦でも優れた手腕を見せた。それは認める。だが奴の気性としてはやはり持久戦には不向きであろう。猛火のように燃え上がって凄まじい武勇を発揮するが、火が静まるのもまた早い。粘り強さに欠けるのだ。それが奴の欠点よ。よって兵糧攻めに会えば必ず音を上げよう。左程長い時はかからぬはずだ」
「成程」
蘭丸は頷いた。主君の戦略眼は神の如きである。やはり村重の敗北は必至であろう。
「摂津守が音を上げて降伏すれば、あの者をお許しになりますか?」
蘭丸は己の分を超えることを承知であえて聞いた。側に仕える身として、やはり主君の甘さはどうしても気にかかるのである。
「……それは奴の振る舞いしだいであるな」
わずかに顔を背けながらノブナガは言った。やはり村重に対して未練があるのは明らかであった。
どうか村重よ、見苦しい真似はしてくれるな。諸将が、兵卒が、そしてこのノブナガ自身が謀反を許すに足る見事な振る舞いをしてくれ。心の底でそう願っているようであった。
「余は安土城に帰城にいたす。蘭丸よ、すぐに準備に取り掛かれ」
敵は有岡城の荒木村重だけではない。最大の敵である本願寺は最古参の将である佐久間信盛が攻略中であるし、羽柴秀吉は三木城を攻めている。
彼らの様子が気にかかるし、新たに指示を与える必要もあるだろう。ノブナガは村重への怒りと期待、それらが入り混じった複雑な気持ちを瞬時にねじ伏せた。そして総勢十万を超える大軍を率いる司令官として、数か国を束ねる為政者としての厳格な表情で蘭丸に命じた。
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