第29話  滝川一益

文字数 2,102文字

「荒木摂津が城外へと逃れただと?」
陣中にて配下の武将達と好きな武辺話を楽しんでいた蒲生忠三郎賦秀(やすひで)であったが、横内喜内からの注進を聞いて怪訝な表情を浮かべた。
側にいた山科勝成も同様であった。
「信じられぬ。何かの間違いでは?」
勝成は即座に反問した。未だ戦場で直接見えていないが、荒木摂津守村重の籠城戦での卓越した指揮といい、加茂砦への鮮やかな夜襲の手際といい、魔的なまでの武勇と死など微塵も恐れぬ桁外れの胆力の持ち主であることは疑いようがない。
それ程の武将が兵達を見捨てて敵前逃亡などという最も恥ずべき卑怯な行いをするなどあり得るのだろうか。
「我らの油断を誘う為の計略ではあるまいか?恐らく逃げたのは替え玉であろう」
忠三郎賦秀は言った。賦秀も村重が逃亡するなど絶対にあり得ぬと思っている。これは計略の一種と疑うのが当然であろう。
「織田家直属の甲賀忍が間違いなく荒木摂津は城外へ逃れたと申しているようです」
喜内の答えを聞き、賦秀は唸った。
忍びとは諜報活動、破壊活動などに従事する存在である。彼らは忍者、細作、草、素破(すっぱ)などとも呼ばれ、堂々と戦場で武勇を発揮して武名を轟かすことを欲するサムライとは違って決して表に現れることはない。闇夜の中を跳梁し、時には暗殺なども請け負う。その功績、武名が人に知られることは無い影の世界の戦士達と言っていいだろう。
織田家軍の方面軍司令官の一人で類まれな用兵巧者と名高い滝川一益は近江国甲賀の出身であり、彼自身も忍びの技を身に着けているという噂である。
一益はその噂については否定も肯定もしないが、彼が甲賀忍びを用いて織田軍の諜報活動を統括しているのは公然の事実である。
その一益の配下の精鋭中の精鋭である忍びが間違いないと断定しているというのだから、村重が城を抜け出たのは疑いようのない事実なのだろう。
「荒木摂津め、必死に籠城する配下達を捨てて城を出るとはどういうつもりだ。どういう魂胆があるにせよ、武士の風上におけぬ振る舞いよ。断じて許せぬ」
賦秀は憤怒の形相を浮かべながら言った。合戦場以外では常に温顔を浮かべている主君が平時においてここまで怒りを露わにしたのはこれが初めてだろう。
だが蒲生忠三郎賦秀にとって武士の威徳こそが命を賭して貫かれねばならぬ唯一至上のものであり、未練卑怯な振る舞いはこの世で最も唾棄すべきものなのである。
まして荒木摂津守村重は憎むべき謀反人にして敵ながらその卓越した武略、絶倫なる武勇に対しては大いに認めていただけに、裏切られた思いなのだろう。
だが賦秀そのような個人的な感情は瞬時に断ち切ったようである。
「皆の者よ」
賦秀は猛者たちを統べる一軍の大将としての厳格な態度を示しながら周囲の者達に語りかけた。
長い包囲戦に厭いてやや弛緩していた勝成とその他の蒲生家の武士達は主君の静かだが力強い気に満ちた声に打たれ、一瞬にして闘志の炎が五体に駆け巡った。
「間もなく上様より総攻撃の下知が下されるであろう。最早遠慮も容赦も一切する必要はない。大恩ある織田弾正忠(信長)様に背いた謀反人にして恥知らずな臆病者である荒木村重に仕えた愚かな有岡武士をことごとく討ち取れ。生かしておく必要がない者共である」
山科勝成、横内喜内ら蒲生武士達は主君の武への一片の妥協なき厳格な姿勢に畏敬の念を深めながら、頭を垂れた。

「荒木摂津は尼崎城にいるらしいか。ふむ」
配下の甲賀忍びの新たな報告を聞き、滝川左近将監一益(たきがわさこんしょうげんかずます)はその色黒の角ばった顔に思慮深げな表情を浮かべた。
滝川一益はその日に焼けた浅黒い肌といい、全く人の印象に残らないであろう平凡な造りの目鼻立ちといい、のどかな声色といい、山奥で炭焼きでもして生活しているのではないかと思わせる素朴な風貌である。
「……」
だが配下の甲賀忍び達は主のこの田舎臭いと言うしかない平凡な風貌、呑気な振る舞いは全て人を欺き、油断させる為の擬態であることを承知している。
常日頃は何事も慇懃(いんぎん)で鈍重とすら言えるが、いざとなれば人の目に映らぬ程俊敏に動き、手練れの武士であっても素手で屠るほどのずば抜けた体術を身に着けている。
長者らしく振る舞っているが決して他人に心を許さず本音を語らず、奸佞邪智(かんねいじゃち)という言葉を体現したような男であるが、一軍を率いれば「不敗の名将」と(たた)えられる程の戦上手なのである。
この乱世にあっても類まれなる曲者と言うべきだろう。
「成程、確かに有岡城よりも海に面した尼崎城の方が戦略的にも有利であろうからな。そこで心機一転して我らと戦おうという腹か。荒木摂津め、まだ諦めた訳ではないのだな」
そこで一益の眼に炯炯(けいけい)たる光が灯った。智謀と野心に満ちた剣呑な光である。
「摂津が有岡城を抜け出て尼崎城に移った事を知るのは一部の重臣だけで、他の配下の者共には伏せられているのだな」
頷く忍び達を見て、一益は会心の笑みを浮かべた。擬態である純朴な表情を捨て、功名を追い求め漁ることにのみ執心する餓狼の本性がむき出しとなっていた。
「砦を守る将共に調略を仕掛けるとするか。今すぐ手はずを整えよ」
そう言って一益は甲賀忍びの精鋭をも瞠目させる程の俊敏さで身なりを整えた。





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