第48話   巡察士アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

文字数 2,714文字

ヤスフェは海の風が心地よいゴアの街道を騎乗の人となって進んでいた。
インド伝統の家屋とヨーロッパ建築が混在するこの通りは幾度見ても飽きることはない。
しかし白い壁と灰褐色の屋根のある建物を見て、ヤスフェは顔をしかめた。
(異端審問所か。全く気分が悪い。あのような建物、出来れば打ち壊してやりたい……)
異端審問所とはキリスト教カトリックへの正統な信仰に反する教えを持つという疑いがある者を裁く機関である。
あくまでキリスト教徒でありながら、誤った信仰を持つと判断された者を裁く為に存在しており、異教徒、ヒンドゥー教徒であるインディア人には本来関係無いはずであった。
しかしゴアを制圧したプルトゥガル人はインディア人にキリスト教への改宗を強制し、その信仰を実践していない者、イスラームの教えやヒンドゥーの神々への信仰を捨てていない者を異端だとして責め立て、処刑しているという。
(確かにキリスト教徒の中には貧しき者、飢える者に施しをし、病める者には献身的に尽くす立派な者も大勢いる。キリスト教が生んだ文明が人々に多くの恩恵を与えたのは事実だろう。だがこの独善的で排他的な姿勢はどうしても好きにはなれぬ)
己は絶対にキリスト教徒にはならない。ヤスフェは改めてそう固く心に誓った。
(と、すればやはりこの仕事を受けてジャッポーネに行くことは出来ないかな)
イエズス会の宣教師がキリスト教への改宗を拒む異教徒を伝道の旅に同行させるなどあり得ないことだろう。
(護衛の話は無かったことになるだけならともかく、最悪の場合捕らえられて異端審問所に引き立てられるやも知れぬ)
このままイエズス会士の所に行くのはかなり危険かも知れない。引き返すべきだろうか。
(いや、私はジャッポーネに行かねばならない。既に運命はそう決まっているように思えるのだ)
初めてジャッポーネという国の名を聞いたその瞬間、神々の声を聞いた気がしたのである。
故郷モザンピークの神々なのか、ヒンドゥーの神々なのか、それは分からない。
姿も名も分からない神だが、その神の意志をこれまで幾度も感じた。
戦場で戦っている時に加護を受けていると感じたし、奴隷から解放されて護衛として初めての依頼主をラーヒズヤに選んだ時も、神の意志に従ったと思える。
そしてジャッポーネに行くことはこれまでの人生で最も確かに神々の意志を感じるのである。
(あくまで改宗を迫ってくれるのであれば、剣でもって答えてくれよう)
ヤスフェはタルワールの柄を軽く叩きながら覚悟を定めた。
「よく来てくれたヤスフェよ。私はイエズス会東インディア管区の巡察師ヴァリニャーノである」
カトリック教会の一室でヤスフェを迎えた人物は名乗った。
ヤスフェ程ではないが、かなりの長身で引き締まった体つきである。
癖のあるダークブロンドの毛を短く刈り込み、豊かな髭を有している。長年禁欲的な生活を送って来た為か、その顔には皺が多く刻まれかなりやつれているが、目鼻立ちは整っており、若い頃はかなりの美貌の持ち主だったことだろう。
そしてその端正なたたずまいと威厳溢れる風格は彼が高貴な生まれであることを雄弁に物語っていた。
「お前の評判は聞いている。戦士として素晴らしい力量の持ち主であるのみならず、誠実で決して契約に背くことはないとか。やはりカトリックを信仰しているのか?」
契約を守る概念を持つのカトリック教徒のみで、異教徒ではあり得ぬと頭から信じているのだろう。
そのヴァリニャーノの、いやキリスト教徒なら等しく持っているであろう偏見と優越意識に怒りが湧いたが、ヤスフェはこらえて平静な表情で答えた。
「いや、私はカトリック教徒ではない。改宗する気も一切ない」
この答えには沈毅なヴァリニャーノも驚愕を露わにした。イエズス会士を前にして、有色人種が堂々と改宗を拒むなど、想像出来なかったに違いない。
だがヴァリニャーノは不逞な異教徒に対して怒りを発するよりも、むしろその胆力に感心し、ヤスフェの人柄に興味を抱いたらしい。
「お前はヒンドゥーの神々を信仰しているのか?」
「ヒンドゥーの神々も信仰しているし、故郷アフリカの神々と精霊も信仰している。私は神とは貴方達が言うように唯一絶対の存在とは思えない。神々は様々な姿であらゆる場所に存在していると思う」
「それは神などではない。真の神に背く悪魔に違いないのだ」
「そのような独善的で排他的な姿勢が気に入らぬのだ。民族や国によって信じる神が違っていいではないか。何故違いを認めぬ。他者に己の神を押し付けるのは止めてもらいたい」
「押し付けているのではない。間違いを正し、真実を伝えているのだ」
その後もヴァリニャーノは多神教の信仰は間違っており、宇宙の創造主、唯一絶対のデウスへの信仰のみが人類を救済することを説き続けた。
だがヤスフェは首肯しない。
手ごわい相手だと見て取ったヴァリニャーノは己が培った神学の知識と弁論術を尽くしてカトリックへの改宗を迫るが、ヤスフェもまたこれまで学んだインディア哲学でもって果敢に抵抗した。
「……全く頑迷な男だな。ヤスフェよ」
己の雄弁、これまで異教徒を数多く改宗させた実績にかなりの自信を持っていたにも関わらず、その自信が目の前のアフリカ出身の偉丈夫に無残に打ち砕かれてヴァリニャーノはかなり傷心しているようである。
「やはり改宗せぬ以上は伝道の旅の護衛としては雇えぬか?」
「いや……」
ヴァリニャーノは改めてヤスフェの厳めしくも整った顔貌、鍛え抜かれた五体を凝視した。
「お前は武芸だけではなく、学問も相当学んだようだな。誤った学問なのは残念だが、頭は相当切れるようだし、読み書きも達者なのだろう。それにカトリック教会の中にいながら異教徒であることを隠さぬその誠実さ、あくまで改宗を拒むその胆力。護衛としてはこれ以上頼れる男はそういないのかも知れんな」
そう言ってヴァリニャーノは破顔した。これまでヤスフェあまりが目にしたことの無い程人間味あふれる魅力的な笑みであった。
(このような男もいるのだな)
ヤスフェは感嘆の思いを抱いた。白人のキリスト教徒、しかもその司祭とくればどうにもならない程独善的で傲慢で、融通というものが全く通じないものだと考えていた。
だがこのヴァリニャーノという人物はイエズス会士としてそのような欠点とは無縁であるとは言えないであろうが、その精神には豊かな弾力性と寛容さを確かに持っているようである。
(この人物なら、信仰の違いを乗り越えて、人間同士の絆が持てるのではないか。命を賭けて守る価値がある男やも知れん)
ヤスフェの覚悟は定まった。
「私を護衛として雇っていただきたい。我が命を賭けて貴方を守ろう」


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み