第36話  七つ松

文字数 2,884文字

十二月十三日。冬の太陽は灰色の雲によって覆われて地上に弱弱しい光を投げかけるのみで、厳しい寒気に満ちた風が悲し気に吹いていた。
尼崎城にほど近い七つ松に柵をめぐらした刑場が設けられ、噂を聞きつけた近在の人々が集まっていた。
未だ中世の因習を打破しきれていないこの時代においては洋の東西を問わず、見せしめの為の罪人の公開死刑は日々つらい労働に追われるのみで楽しいひと時など持ち得ようもない貧しい民衆にとっては憂さを晴らすことが出来る数少ない娯楽に違いないだろう。
だが今日この時七つ松の刑場を遠まきにして集まる人々の表情には罪人の死を喜ぶ酷薄な喜び、日々の憂さを晴らせる期待に心躍らせる色は微塵も無い。
彼らの顔貌に浮かぶのはこれから行われる惨劇を招いた荒木村重、及び荒木久左衛門への深甚な怒りであり、何の罪も無いのに死なねばならない女子供達への憐れみであり、無慈悲な死刑を命じた織田信長への怖れと嫌悪であった。
そして女性と子供たちが刑場に入って来た。彼女たちは何れも白い着物を着ており、後ろ手には縄がかけられていた。
女達の表情は様々である。武家の娘、妻として見苦しい真似はすまいと覚悟を決め、毅然としている者もいたが、やはりそれは少数であった。
恐怖から泣き叫ぶ者、このような理不尽には到底納得できず鬼女の如き凄まじい形相を浮かべる者、放心している者、世を呪うように天空を睨み付ける者。
そしてこれから何が行われるのか未だ理解出来ずに不安気な表情で彼女たちにすがって歩く幼児たちの姿は余りに哀れで見る者の涙を誘わずにはいられなかった。
死刑執行を行う織田家の兵士達は彼女らに容赦なく怒声を浴びせて追い立てる為、見守る野次馬たちは我慢できず怒りと呪いの言葉を投げかける。
しかし兵士達も内心では己の行いを恥じ、怒りを感じているに違いない。ただ一刻も早くこのような忌まわしい任務を終わらせ、解放されたいが為に己の心を殺し、ことさら強硬に振る舞っているのだろう。
刑場には九十七本の(はりつけ)柱が立てられていた。
それを目の当たりにして女達の泣き叫ぶ声は一段と高まり、天を裂き、地を震わせるかと思われた。
見守る近隣の人々、そして兵士の一部も余りに悲惨な声を聞くに耐えられず思わず我が耳を塞いだ。
「……!!」
その時、勝成が七つ松に到着した。軽やかに愛馬から飛び降りると、その長くたくましい腕で野次馬たちを強引にかき分け、刑場を囲む柵にまでたどり着いた。
その勝成の若葉を思わせる緑の瞳に映ったのは磔柱にかけられた女と幼児たち、そして銃を構えた兵士達の姿であった。
「やめろー!!」
山科勝成は思わず日本語ではなくジョバンニ・ロルテスとして生まれ育った母国イタリアの言葉で叫んだ。
しかしその悲壮な声は一斉に鳴り響いた銃声による轟音、そして女と幼児たちの絶叫と悲鳴でかき消された。
周囲の人々のすすり泣く声と怒りの呻き、そして無心に念仏を唱える声が勝成の耳の中にこだまする。
銃弾で死にきれなかった者達に止めを刺すべく兵士達は槍を構えて一斉に突進していった。
兵士の槍で深々と急所を刺された女達は噴き出る鮮血で白衣を紅に染め上げながら苦悶し、呻いて涙を流しながら次々と絶命していく。
「……」
勝成は思わずその場で膝を折った。
「何故、このような……」
余りに悲惨な光景が信じられず、そう呟いたのは山科勝成だけではなかっただろう。
しかし処刑はこれで終わりではなかった。
残りの男性百二十四名、女性三百八十八名が四軒の農家に押し込められた。
兵士達は入口を板で釘付けにし、家の周りに枯草や薪を積み上げていく。
兵士達の表情には刑の執行者としての残酷さや倨傲さ、あるいは正義を行う誇りといったものは微塵も浮かんでいない。
むしろ己が天も許さぬ大罪を犯しており、いずれ必ずその報いを受けるのだという恐怖を浮かべているか、あるいは己の心を殺しきって生きたまま亡者と化したように顔面の筋肉が硬直しているかのどちらかであったと言っていい。
そして火がつけられ、家の中から凄まじい悲鳴が上がった。
烈風が突如吹いたがその風は炎の勢いを沈めるどころか、逆に勢いを煽るだけの結果となった。
燃え盛る炎の中からは助けてくれ、火を消してくれという嘆願の声、身を焼く苦痛の叫び、来世の救いを神仏に一心に求める祈り、そして無慈悲な刑の執行者への呪詛の声が炎の音と混じり聞こえてきた。そして鼻孔をつく凄まじい異臭。
まさにホトケの教えで言うところの八大地獄の一つ、亡者が猛火の中に投げ入れられて苦しみぬくという焦熱地獄が眼前に現れ出でたというしかない光景であった。
七つ松に怖いもの見たさで集まった人々であったが、言語に絶する惨状に耐えかね目や耳を覆いながら逃げ帰る者、あるいは地に付して号泣する者、人間が生きたまま焼かれる臭いに耐えきれず嘔吐する者、魂が抜けたように呆然となる者、仕置き人を罵りながら石を投げる者、そして失神して倒れる者と様々であった。
「……」
勝成はその場で膝を折ったまま、彫像と化したように不動のままであった。
これまでヨハネ騎士としてマルタ島での激戦を戦い抜き、傭兵としてヨーロッパの戦場を渡り歩いた身である。
数え切れない程人を殺め、路傍に転がる死体と遭遇し、虐殺の現場を見て来た。
しかし今眼前に行われた刑の執行を超える凄惨な光景は目にしたことはなく、今後も見ることはおそらく無いだろう。
「ノブナガ……」
勝成は怒りと憎悪を込めて主君の義父であるジャッポーネの覇王の名を呼んだ。
そして初めて日野鉄砲を手にし、腕を磨こうと決意した動機を思い返した。
織田信長という人物がもし海外に目を向けてヨーロッパ、祖国イタリアに仇を為すようであるならば……。
いや、例えそうでなくても己は到底ノブナガを許すことは出来そうにない。
「オルガンティノはノブナガを古代ローマのカエサルに例えていたな。ならば俺はブルトゥスにならねばならないかも知れない」
ブルータスことマルクス・ユニウス・ブルトゥスは権力を求めて飽くことを知らない独裁者カエサルを何としても止めねばならぬという純然たる正義の意志から刃を振るった。
そして彼と意志を同じくする者達と共に終身独裁官となったカエサルに二十三か所もの傷を与えて絶命させたのである。
勝成はキリストが生まれる前の時代の英雄であるブルトゥスの思いが今はっきりと分かる気がした。
確かにオダノブナガという人物はカエサルの再来に違いない。政戦両略の卓越した手腕、権力への異常な執着、そして己の正義を実行する為ならばいかなる残虐行為も厭わない鋼の意志。
「ならばその末路も同じとなるべきだな、ノブナガよ。お前がこの国の権力の頂点に達することは決してない。俺がそうはさせん」
決意を新たにした勝成は心を沈めて懐から取り出した十字架を握りしめながら無惨に殺された人々の魂が救われるよう、貴き天のデウスに祈りを捧げた。
その端正な響きのラテン語の言葉は周囲の人々のカミやホトケに祈る声と一つとなって七つ松の大地に静かにこだまし、やがて風に乗って空へと舞いあがっていった。





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