第56話  聖域

文字数 2,154文字

宣教師ヴァリニャーノから休暇をもらったヤスフェは散策を楽しんでいた。
九州肥前国はジャッポーネの南方に位置し、温暖な気候であるが、否応なくインディアの酷暑に慣れるしかなかったヤスフェからすれば涼しいと感じる程で、非常に過ごしやすい土地である。
澄み切った碧空から降り注ぐ陽光はあくまで爽やかで心地良く、インディアの大地を焼くが如き厳しい日光とは全く異質のものであった。
(そう言えば日本人はアマテラスという太陽の女神を最高神として信仰しているのだったな。確かに日本の美しい海に浮かぶ太陽は厳格な男神よりもたおやかな女神というに相応しいかも知れん)
かつて護衛についたラーヒズヤの書庫で各地の神話を学んだヤスフェであったが、女神を最高神とする神話を持つ国は他に無かったように思える。
そう言う意味で日本は極めて珍しい神話体系を持つ国と言えるだろう。
「この国の神を祀っている聖域に行ってみるか」
カトリックの宣教師の護衛についている時には決して行けない場所だろう。
この期を逃す訳にはいかないとヤスフェの足取りは弾んだものとなった。
カミやホトケを祀っている聖域はどこにあるか、わざわざ土地の人々に聞く必要は無いだろう。
それらは到るところに数え切れない程たくさんあるとマカオで知り合った日本人から聞いていたからである。
「ここなどはそれっぽいな」
小山の頂に通じる綺麗に掃き清められた石段を見て、ヤスフェはそう直観した。
石段を一歩一歩歩いているうちにヤスフェの鋭敏な感覚が聖なる気配を捉える。
(ここではないのか?私を呼ぶ神がいる場所は。名前が分からぬ、だが戦士としての道を歩む私を確かに守り導いてくれる神が祀られている場所は……)
確信が少しずつだが確実に高まっていく。
ヤスフェの逞しい足取りが止まった。しばし瞑目して感動と畏敬の念に打ち震えた後、ヤスフェはまた階段を登る。
鬱蒼とした木々に囲まれたその聖域はいたって小さな場所であった。
神を祀っているであろう建物も木製の粗末なもので、インディアにおけるヒンドゥーの神を祀った寺院の荘厳さに比べれば全くみすぼらしいというしかない。
だがヤスフェはインディアの聖域では左程感じなかった感動、そして心の底から湧き出でる神への信仰の念に涙が滲んだ。
(間違いない。ここに祀られている神こそが私を守り導いてくれている神だ)
その神の名は何であろうか。
神の名を知る手がかりはないであろうかとヤスフェが建物に近づいたその時である。
けたたましい声が石段の下より鳴り響いた。数人の男女が大声でわめきながら荒々しい足取りで石段を登って来るようである。
(何事だ?この静寂に包まれているべき聖なる場所に向かって無作法な……)
ヤスフェは自分でも不思議な程深甚な怒りを覚えた。
この聖域に現れたのは十人程の男女である。歳は若い者と壮年が半々であろうか。
来ている服は比較的高価な装いのものが多く、身分が高い者達なのだろう。
彼らは無人だと思っていた場所に人が、しかも黒い肌の偉丈夫という全く想像もしていなかった存在がいたことに仰天したような表情を浮かべたが、すぐに喜びの感情を表した。
「ああ、貴方が近頃噂になっている新たにこの国に来られた伴天連様方の護衛の方ですね」
「……貴方達は?何をしにここに来られたのですか?」
彼らが自分の存在を知っていること、そして敬愛と親しみを表したことにヤスフェはとまどいながらも、慎重に尋ねた。
何故なら、彼らは皆それぞれ大きな木づちや金槌といった破壊の為の道具、それに火を放つ為の松明や柴を持っていたからである。
ヤスフェに対して敵意や害意は全く無い様子であるが、何かよからぬ目的でこの聖域に来たことは明らかだろう。
「悪魔を祀る汚れたこの場所を破壊しに来たのですよ」
彼らの中の一人が誇らしげに答えた。
「何ですって?」
ヤスフェは我が耳を疑った。彼らは悪魔、汚れた場所と言ったようだが、何かの間違いだろう。
ここは日本の神を祀る聖域のはずである。
「貴方こそ、我らと同様に伴天連様の御指示でこの汚らわしい場所を破壊しに来たのではないのですか?」
逆に問われてヤスフェは混乱した。どうやら聞き間違いではなかったようである。
「私たちは伴天連様より真実を教わりました。日本古来の神も天竺より伝来した仏も所詮は真の神、宇宙の創造主たる唯一絶対のデウスに背く邪神、悪魔の類に過ぎないと。そしてこの国の民の誤った信仰を正してデウスへの信仰に導き、魂を救済する為には悪魔を祀った汚らわしい神社仏閣を悉く破壊せねばならないと」
「……」
ヤスフェは言葉を失った。かつてこの国の人々は宣教師ザビエルの説法の矛盾をつき、伝道の困難を思い知らせたと聞いていたが、その後もザビエルの執念と呼べる程の布教活動、そして彼の意志を継いだ宣教師達によってやはりキリスト教徒は確実に増えていたのである。
そして傲慢にして不寛容、異教徒の文化信仰を汚れたものと断じて一切認めないカブラルが彼らに神を祀った神社、仏の教えを説く寺院の破壊をそそのかしていたのである。
「さあ、我らに力を貸して下さい。貴方のその立派な体格なら私たち五人分の御働きが出来るのではないですか?」
壮年の人物がヤスフェの雄偉な体を惚れ惚れと見ながら木づちを手渡そうと近づいてきた。






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