第8話 「へらへら」
文字数 2,547文字
二階から一階に下りて居間をのぞくと、母が昨日の姿まま、ソファに横になっていました。どうやら一歩も動いていないようです。
母にどう声をかけようかと思っていると、キッチンから「バタン、バタン」という音が聞こえてきました。
なんだろうと思ってキッチンに行ってみると、父がキッチンの戸棚の扉をやたらと開けていました。
「なにしてんの?」
「なにって・・」
食器棚のいちばん上の棚をつま先立ちで、のぞきこんでいた父がぼくの方にふりむいて答えます。「コーヒーを探しているんだ」
ぼくはなんだか無性に腹が立ってきました。コーヒーをそんな戸棚の奥になんかに置いといてくわけないだろう、と思ったのです。
実際、コーヒーはいわば目立つところ、キッチンカウンターのコーヒーメーカーの横に、でんと「ぼくここにいます」みたいな顔をして並んでいるのでした
いっそのことコーヒーの場所を教えないでおこうかと思いましたが、このあともずっと「バタン、バタン」されるのもいやなので、「コーヒーならここにあるよ」と教えました。
実をいうと、ぼくもコーヒーを飲みたいなと思っていたのでした。
「おう、サンキュー、サンキュー」
父が食器棚のいちばん上の棚のぞくのをやめました。
ほんと腹が立ちます。
こんなときに、「サンキュー、サンキュー」だなんて。
なんでそんなに軽い感じで、そんなにへらへらできるのか。
へらへら!
ここでまさかの「へらへら」です。
「へらへら」というのはぼくの小学校時代のあだなでした。
いまようやくわかりましたが、この「へらへら」は父からうけついだものだったのです。こんないらないものをうけつぐいでしまうなんて・・。
「ぼくがコーヒー入れるよ」
おそらくはコーヒーメーカーの使い方もよく知らないであろう父に、これ以上いらいらさせられてはたまらないと思い、ぼくは自分でコーヒーを入れることにしたのです。
「おう、サンキュー、サンキュー」
二回目の「サンキュー、サンキュー」です。
また腹が立ってきたぼくですが、ここはぐっとがまんして、コーヒーフィルターをセットします。
我が家の小ぶりなダイニングテーブルに座る父。
なんだかすでにひと仕事終えたような顔をしていて、さらに腹が立ってきます。
でもそこもぐっとがまんして、コーヒーを入れるぼく。
多めに作っておいたほうがいいかなと思って、コーヒー粉を四人分ぐらい入れました。
それからやかんに水をいれ、その水をコーヒーメーカーに注ぎます。
我が家のコーヒーメーカーは、一年ぐらい前に姉が買ってくれたものです。
ぼくはよく知りませんが、けっこう高いコーヒーメーカーだそうです。
「やっぱり高いものは味がちがうね」
「コーヒーの味なんてわからないくせに」
なんて、姉がこのコーヒーメーカーを買ってきた日に、姉と母がはしゃいでいたことを思い出します。
コーヒーメーカーの電源をいれるぼく。
やがて、プシュプシュ音を立てはじめるコーヒーメーカー。
ぼくは父の向かいに座って、コーヒーができるのを待ちます。
黙ったままの二人。
まあ、これはいつものことなのですが・・。
父と話すことなんてなにひとつ思いつきません。こんなときでも。あるいは、こんなときだからこそ。
「ピンポーン!」
不意に玄関チャイムが鳴って、うろたえるぼくら二人。こんな朝早くからなんなのでしょう。
父と目があうぼく。
思わずどきりとしました。父の目があまりにも不安げだったからです。
「見てくる」
ぼくは立ち上がり、玄関に向かいました。
早朝の我が家。まったく人の気配のしない我が家。
でも、レンガ色の玄関タイルの右はじにある自分のアディダスのスニーカーを踏んづけて、玄関ドアのドアスコープから外を見ると、マスコミの人たちがスコープいっぱいに見えました。
マイクを持った人やカメラを持った人。
十人以上はいると思います。うちは庭がせまいので、というか、ほとんど庭なんていえるものはないので、道路にまではみだしているようです。
もちろん、ぼくは玄関ドアを開けたりはしませんでした。
ぼくには気がきいたマスコミ対応などできないからです。
ぼくはマスコミに気づかれないよう静かに玄関ドアにチェーンをかけると、玄関から離れ、家中の窓を閉めてまわりました。カーテンもすべて閉じました。
「ピンポーン!」
またも鳴る玄関チャイム。今度は「ピンポーン!」「ピンポーン!」「ピンポーン!」と鳴りつづけます。
それはとても耐えられない音でした。
ひとつひとつの音がまるで殴られたり、蹴られたりでもしているかのように、ぼくら家族には暴力的に聞こえるのでした。
ぼくは居間にいきました。
居間に玄関チャイムの室内インターホンがあるからです。
居間ではソファで横になっている母が毛布を頭からかぶって丸くなっていました。やはりこの玄関チャイムの音が耐えられないのです。
ぼくはしばらく玄関チャイムの室内インターホンの上を見たり下を見たり横を見たりしたあとで、やっと電源を見つけ、オフにしました。
静かになりました。
これでもうだいじょうぶです。
ぼくは母になにか声をかけようと思いましたが、なにひとつ言葉を思いつきませんでした。
やはりぼくはできがわるいのです。
ぼくはなにもいえないまま、キッチンに戻りました。
キッチンに戻ると、コーヒーはもうできていました。
父はぼくを待ってくれていたようで、ダイニングテーブルの上には空のコーヒーカップがふたつ並んでいました。
「マスコミが来ているみたい。玄関チャイムの電源切ってきた」
「そうか・・」
父は不安げな目のままうなずき、それから立ち上がりました。
ぼくは我が家の小ぶりなダイニングテーブルに座りました。
父はキッチンカウンターのコーヒーメーカーからコーヒーサーバーを取り出すと、立ったまま、ダイニングテーブルに並んだコーヒーカップにコーヒーをそそぎはじめました。
なんだかカチカチと音がすると思ったら、サーバーとカップがこきざみにぶつかる音でした。よく見ると、父の手が震えているのでした。
ぼくは見ていられなくて目をそむけました。
「はい」
「うん」
ぼくと父は黙ったまま、コーヒーを飲みました。