第35話 どこまでも転げ落ちる
文字数 1,277文字
「はあ、はあ」
という、自分のあらい息。
そのうち足が重くなり、心臓の音が耳の後ろで聞こえてきて、なんだか頭が痛い気もします。
しかし何度目かに振り返ったとき、もうぼくを追っている男の姿はありませんでした。
ぼくはふらふらと、児童公園に入りました。たまたま児童公園のそばを走っていたのです。ぼくは目立たぬよう、公園のオレンジ色の外灯を避けて、大きな植え込みの裏に倒れこみました。
情けないことをいうようですが、もう走れそうにありません。限界です。寝転ぶとよけいに心臓の音が大きく聞こえ、それが気持ちわるかったです。
「いい、あきひと。自分のペースで走るのよ」と姉がいっていたことを思い出しました。小学校の長距離走の前日のことです。
そうでした。やみくもに走っていてはだめなのでした。ジョギングで走っていたあいつの方がずっと賢いのです。
それに、とぼくは思いました。どこかへ向かわなくてはならないと。目的地がないと、この追いかけっこは永遠に続いてしまうと。
でもどこへ?
まったく頭が回らないぼくはしばらくかんがえたあとで、ようやく交番という答えを見つけました。
ここからいちばん近い交番は川の向こうです。姉のマンションのいちばん近くにある大きな橋を渡ればすぐそこに交番があるのです。
ぼくは立ち上がり、あたりを見回して、あいつの姿がないことを確認してから歩きはじめました。
児童公園から川までは思いのほか近く、ぼくはすぐに川の土手に沿って歩くことになりました。
川沿いの道路は交通量の多い、大きな道路なのですが、さすがにこの時間には車はほとんど走っていません。
ぼくが渡るべき大きな橋は見えています。ライトアップされた、美しいつり橋。ぼくは一歩一歩その橋に近づいていきます。
姉のマンションの前を通り過ぎ、ようやく橋のたもとまできたときに、橋を渡ってきた車が左折してぼくの方に向かって来たのですが、そのヘッドライトの明かりの中に、黄色いスニーカーの男が浮かびあがりました。
「あっ!」
とぼくは思わず声に出していい、それから男に背を向け、また走り始めました。
男が先回りしていたのか、たまたまなのかわかりませんが、それにしてもぼくは頭わる過ぎでした。
交番に向かう前に、あるいは向かいながらでも、いやいや児童公園からみずきさんや警察に連絡すればよかっただけだったのです。
ぼくは川の土手を走りました。しかし早くも息が切れ、なんだか頭がくらくらします。
酸欠?
貧血?
まずいと思った瞬間、川の土手が急に斜めになりました。足がもつれ、ぼくは土手の上から落ちたのです。
川の土手を転げ落ちていくぼく。
どこまでもどこまでも転げ落ちていきます。
草のにおい、土のにおい、川のにおい。
ぼくは地面に投げ出され、一瞬どこにいるかもわからなくなり、ぼんやりときれいな星空を見つめます。口の中に広がる血のにおい。
それから、はっとして起き上がります。
あいつは?
立ち上がって、あたりを見回そうとした、そのとき、ぼくはそいつにお腹を刺されたのでした。姉と同じ河川敷で。