第40話 うまい棒

文字数 2,003文字


 わたしは横川みつお。
 愛人を殺害された男。妻に逃げられ、子供に会えない男。つい先日、うつ病と診断された男。

 わたしが心療内科を受診したのは、うちの社員たちに病院にいくようにすすめられたからです。

 わたしにしても、もしかすると、という自覚はあったのですが、社員にいわせると「やばいですよ、社長」とのことでした。  

「そんなに?」
「まじやばいです」

 どうしてそう思うのか聞いてみると、「だってこのあいだ、社長、うまい棒もったまま、三十分ぐらいぼーっとしていましたよ」

 三十分!
 これには我ながらぞっとしました。たしかに、社員からもらったうまい棒(たしかチーズ味)を持ってぼんやりとしていた覚えはあります。しかし、三十分もそうしていただなんて・・。

 さらに、これははずかしくて病院の先生にもいってないのですが、そのときぼんやりしながらも、その一方では、このうまい棒を袋の上からおもいっきり手で叩いて、粉々にくだきたいという気持ちをがまんしていました。うまい棒を粉々にくだいたところでなにがどうなるって話ですが・・。

 しかし一瞬ならともかく、三十分もそうしていたとなると、自分でも病んでいると認めざるをえません。

 
 実際、病院にいくと実にあっさり「うつ病ですね」と診断されました。あっさりし過ぎていてびっくりしました。

 というのも、もっといろいろな検査があると思っていたからです。それが、五分から十分ぐらい話しただけで、もううつ病なのでした。

「できれば入院した方がいいですけど、どうですか?」
「いや、入院はちょっと・・」
「じゃあ、しばらく仕事を休んで、自宅療養はできますか?」
「まあ、それなら・・。やっぱり仕事は休んだほういいですか?」
「いいです」
「わかりました」

 先生の話では、最低でも一ヶ月ぐらい休んだ方がいいそうです。

 そんなにと思いましたが、「じゃあ、そうします」とわたしは答えました。これ以上、社員に迷惑はかけたくないからです。

 うまい棒をもって三十分もぼーっとしている社長ならいない方がいいに決まっています。

「では、お薬出しておきますので」
「はい」

 そういうわけで、一ヶ月間、自宅療養することになったわけですが、ここにひとつの問題が生じてきます。母にどういうか問題です。

 ただでさえ、誤認逮捕だったとはいえ、一度は殺人犯として逮捕されて、おそらくは相当の心配をかけているはずなので、さらなる心配はかけたくはありません。

 とはいえ、この難問をいまのわたしでは解けるわけもなく、結局、母にはそのまま、うつ病になったので一ヶ月仕事を休むと伝えました。

 わたしがうつ病と聞いて母はすごくうろたえるのではないかと思っていましたが、母は「そう、いまどきね」といっただけでした。

 これには正直おどろきました。いろいろあって四十過ぎて実家に戻ってきた息子がうつ病になっても、そういってくれるのです。

 たすかりました。というか、もっといえば救われたような気がしました。うつ病になってもいいんだ、と思えたのです。

 
 そうしてはじまった自宅療養ですが、特になにもすることはなく、ただただ時間をやり過ごすだけです。かつての自分のベッドに腰かけて、です。

 なにもやることはなく、というか、やるべきことすらありませんが、それでもわたしは毎朝、近所のコンビニに散歩がてらいっています。

 先生も散歩はいいといっていたからです。いや、ほんとうはそうじゃありません。正直いうとわたしは毎朝コンビニにうまい棒を買いにいっているのです。

 めんたい味、サラミ味、たこ焼き味、などなど。 

 わたしは自分の部屋の昔の勉強机に座って、うまい棒を思う存分、袋の上から手で叩いて粉々にします。

 これがどういうわけか、すごく気持ちがいいのです。まあ、すごく食べにくくはなるのですが。

 もちろん、うまい棒だけではなく。薬もちゃんと飲んでいます。

 わたしに処方された薬は三種類。ジェイゾロフト、ドグマチール、メイラックス。

 すべて錠剤です。それぞれの薬の効用や副作用について、先生はくわしく説明してくれましたが、すみません、ぜんぜん頭にのこっていません。

 でも、この三種類の薬、けっこうききます。服用してしばらくもすると、頭がぼんやりとしてきて、眠たくなります。

 ベッドに横になり、目を閉じるわたし。なんだか浮いているような気分。いやいや、わたしは大きな川を流れているのでした。ちょっと気分がいいです。

 とそのとき、わたしは不意に、その大きな川に、若い女性の足、手、胴体が流れていることに気づきます。

 わたしははっとして起き上がります。時間は午後四時。夕方のベッドで震えているわたし。

 なんで彼女が死に、わたしが生きているのか? 

 そんなことさえわからないまま、わたしはベッドから立ち上がり、カーテンを閉じます。それからまだ震えがとまらない手で薬を飲みます。
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