第29話 「じゃあ、こうしてやる!」
文字数 2,176文字
姉の部屋の片づけをはじめて五日目。
ぼくは少し休憩しようと思って、午前三時ごろにベランダに出て、ぼんやりと手すりにもたれていました。
すると、外灯の下でなにかが動きました。なんだろうと思ってよく見ると、それは人影で、ちらりと黄色い靴が見えました。
黄色いスニーカー!!!
ぼくは反射的に部屋を飛び出しました。みずきさんが「犯人は黄色いスニーカーをはいた男かも」といっていたからです。
エレベーターが一階にとまっていたので、階段の方が早いと思い、ぼくは階段を駆け下りました。
しかし外に出てみるともう誰もいませんでした。外灯の下は無人でした。しばらくあたりを見回してから、ぼくは姉の部屋に戻りました。
部屋に戻っても、というか、戻ってからの方が、よりひどく心臓が鳴っています。
気のせいなのか、とぼくは自分に問いかけます。
何度も何度も問いかけます。
「気のせいさ、そうにきまっているだろう」とぼくは答えます。
しかしその一方で、「いやいや」ともうひとりのぼくが答えます。「たしかに見たぞ、そうだろう」
どうすればいい?
なにをすればいい?
興奮して、そんなことすらわからなくなっているぼくです。
しばらくしてようやくみずきさんに電話することを思いつきます。みずきさんとは連絡先を交換しているのです。
ぼくはポケットからスマホを取り出しすと、みずきさんに電話をかけました。
なかなか電話に出ないみずきさん。あとになってかんがえてみると、午前三時過ぎだったのであたりまえですが。
でも鳴らし続けていると、「はい、花森です」と出てくれました。すごく寝ぼけた声で。
「すみません、みずきさん。あきひとです」
「あきひとくん?」
「はい」
「どうしたの? こんな時間に」
「それが」とぼくは説明します。姉のマンションのベランダから黄色いスニーカーをはいた男を見たかもしれない、と。
「えっ!」とみずきさん。完全に目をさましたようです。
「すぐに行くから、待ってて!」
「はい」
ぼくはベランダに出て、みずきさんが来るのを待ちました。
静まり返った、午前三時過ぎの町。でも、ぼくの心臓はまだ乱れたままです。
あいつが姉を殺した男なのか?
ストーカーだった男なのか?
姉の部屋に明かりがついていたのに気づいて部屋を見ていたのか?
あまりにもたくさんの「?」がぼくの頭の中を通り過ぎていきます。
それから、急にこわくなってきます。あいつが姉を殺した男だったのなら、ぼくだって殺されるかもしれない、と思ったからです。
我ながら気づくのが遅過ぎですが。
そのうち、遠くからスクーターの軽やかなエンジン音が聞こえてきて、ぼくは外に出ました。
マンションの前で待っていると、黄色いスクーターがぼくの目の前で止まり、みずきさんがヘルメットを脱いで、ショートカットの女の人がよくするようにかるく頭をふります。
「どこにいたの?」
「あそこです」
ぼくは外灯の下を指差します。
「そう。じゃあそのあたりを見てくるね」
みずきさんは脱いだヘルメットをスクーターのミラーにかけると、すぐに歩き出しました。
「ぼくも行きます」
あわてて、みずきさんのあとを追うぼく。
姉のマンションの周辺を歩くぼくとみずきさん。深夜の寝静まった町。あたりにひびくのはぼくらの足音だけ。
そうして一時間ほど歩いたでしょうか。結局、ぼくらは黄色いスニーカーの男を見つけることができませんでした。
「コーヒーでも飲む?」
「はい」
ぼくとみずきさんは姉のマンションの近くのコンビニでコーヒーを買って、姉のマンションの前で飲みました。
みずきさんは自分のスクーターのシートに座り、ぼくはその横に立って。
十月の夜明け前のすみきった、冷たい空気がぼくの頬にあたります。
「すみません」と少し冷静になったぼくはいいます。
「なにが?」
「いや、もしかすると気のせいかもしれないと思って」
「でも、ほんとうに見たんでしょう? 黄色いスニーカーの男」
「まあ、そうですけど・・」
「じゃあ、『見た』でいいでしょう。もっと自信を持って、あきひとくん」
「すみません」
「あきひとくん」とみずきさんがぼくの目をまっすぐに見ていいます。「もし今度、黄色いスニーカーをはいた男を見かけたら、まずわたしに連絡して。自分ひとりだけで追いかけちゃだめよ」
「わかりました」
なんだか少しだけ、母が「みずきさんが姉に似ている」といっていたわけがわかるような気がしました。
見た目ではなく、たぶんこの頼もしさです。そう思うとなんだかおかしくなって、ついぼくは笑ってしまいました。
「えっ、なになに?」
「いや、なんでもないです」
「じゃあ、なんで笑ってるの?」
「いや、なんでもないです」
「じゃあ」といって、みずきさんは立ち上がると、飲みかけのコーヒーの紙カップをスクーターのシートの上に慎重に置きました。
それから急にぼくの背後にまわったかと思うと、「こうしてやる!」といって、いきなりぼくの左腕をとって、ひじを極めてきました。
さすが刑事、強いです!
「痛い! 痛い!」と右手に持ったコーヒーをこぼしながら騒ぐぼく。
「まいったか」といって笑うみずきさん。
「まいった、まいった」とぼくも痛いながらも、笑いながら答えました。
ほんとうに、なにがおかしいのだか、よくわかりませんが。