第31話 今日もその川を渡る
文字数 1,847文字
マンションを売ったわたしは実家に帰って、母と二人で暮らしています。
実家に帰らずに、会社の近くで安いマンションでも借りようかと思ったのですが、なんだかいまさら新生活をはじめる気力もなく、はずかしながら親に甘えることにしたのです。
母はなにもいわずにわたしを迎え入れてくれました。
親というのはありがたいものです。
久しぶりの実家はなんというか、おちつくといえばおちつくような、おちつかないといえばおちつかないような、なんだか妙な気分です。
実家には妻やこどもをつれてちょくちょく帰ってはいたのですが、でも住むとなると話はまたべつなのです。
わたしはかつて自分が使っていた、ほぼ昔のままの部屋で寝起きしているのですが、そこでもやはり妙な感じがします。高校の頃まで使っていたベッドに腰かける、四十二歳のわたし。
なんといえばいいのでしょう?
こんなときにうまくいえたためしはありませんが、なにかが決定的にちがうのです。そこはたしかに知っている場所なのですが、まったく同じ場所ではないのです。
とはいえ、実家での暮らしは楽ではあります。ただひとついわせてもらえば、母が作ってくれる食事の量が多過ぎますが。
「ちょっと多いよ、これ」
「あらそう。じゃあ、次から少し減らすね」
というやりとりを毎回のようにやっているのですが、いまのところ食事の量はいっこうにへる気配はありません。
なんなのでしょう? 年のせいか、母が少し忘れっぽくなっているのでしょうか?
それとも母はわたしのことをまだ食べ盛りだとでも思っているのでしょうか? よくわかりません。
マンションだけではなく車も売ったので、通勤は自転車です。
実際のところどうかなのかと思っていた自転車通勤ですが、思っていたよりわるくないです。
というか、気持ちいいです。久しく忘れていた心地よさです。思えば体を動かす心地よさというものをすっかり忘れていました。
といっても、わたしはそもそも運動が苦手だったので、スポーツはなにひとつやってなかったのですが・・。
でも、ほんとに気持ちいいのです。通勤時の朝も夕方も、あるいは残業した夜も。
わたしは町を軽やかに自転車で走り抜けます。まあ、「軽やかに」と思っているのは自分だけでしょうけど。
自分でも自転車が似合わないのはわかっています。でも、かっこつけてロードバイクを購入しました。
とはいえ、スーツなので上にはマウンテンパーカーを着て、パンツの裾にはバンドをしています。これでなんのストレスもなく、快適に走れるのです。
しかし、これは自転車だからというわけではありませんが、実家から会社に行くにはこの町を流れている大きな川を渡らなければなりません。どんなに遠回りしてもこの川を避けることはできないのです。
そうです、この大きな川は瀬尾まりさんの遺体が見つかった川。わたしの中学時代の通学路でもありますが。
この川を渡るたびにわたしは瀬尾まりさんのことを思わずにはいられなくなります。
どうしてあんなに若くて、美しい女性が殺されなければならなかったのか?
どうしてバラバラに切断されなければならなかったのか?
どうして・・。
もちろん、いままでこのことに思いをはせなかったわけではありません。
しかしゆっくりと考えている余裕がなかったのです。なにしろわたしは彼女を殺した犯人として逮捕されていたのですから。結局、自分のことだけでせいいっぱいだったのです。情けない男です。
でもいまでは川を渡るたびに、彼女の顔が脳裏に浮かんできます。
生き生きとした、よろこびにみちた表情。いつも真剣で、楽しそうで、生きるということになんの迷いもなかったような顔。
悲しみ、怒り、あまりもの無力さ。様々な感情がわたしの中で湧き上がり、まじりあい、最後には渦を巻くようにして、わたしの心の底へ底へと流れ込んでいきます。
なんでわたしは生きているのか?
その価値はあるのか?
そう思いながら、わたしはロードバイクのペダルを踏みます。そうして、大きな川にかかった橋を渡っていくのです。
ときおりすごく強い横風がふきつけてきて、おおげさではなくわたしは自転車ごとふき飛ばされそうになります。
わたしは自転車にしがみつくようにしてペダルを踏み続けます。まだ捕まっていない犯人。いったい、犯人は何者なのか? どこから来たのか? いったいどうすればそんな残虐なことができるのか?
わたしは今日もその川を渡り、明日も渡ります。