第32話 もうカモメの鳴き声も聞こえません。

文字数 2,460文字



 会社では黙々と仕事をしています。
 というか、もう黙々と仕事することしかできないのです。

 以前は社員たちと楽しくおしゃべりしながら仕事をしていたのですが、もうなにも、特におしゃべりに適していると思われる言葉が出てこないのです。空っぽなのです。

 ただあまりにも黙々と働き過ぎるせいか、最近は仕事中になんだかぼんやりとすることも多くなっているようです。

 この前も書類を見ていると、「どうしました社長? なにかミスでもありましたか?」と、その書類を作成した社員に声をかけられました。

「いや、そういうわけじゃないよ。ミスはないと思う」とわたしは書類から目を離し、社員に笑顔を見せました。

「それならいいですけど・・」と社員は少し怪訝そうな顔をしながら自分のデスクに戻りました。

 その表情から察するに、わたしはずいぶん長い時間、その書類に目を落としていたようです。
 わたしは少し疲れているのかもしれません。


 そういうこともあって、休日である土日は、ゆっくりと寝ていようと思うのですが、そうそう長い時間寝ていることもできず、普段と同じぐらいか、なんなら少し早めに目が覚めてしまいます。

 でも、なにもすることがありません。正直、休日は時間を持て余しています。

 実家に戻ったばかりの頃は、母が家の修繕やら、片づけやらをいろいろと頼んでくるので、それなりに時間がつぶれていたのですが。
 しかし、それもひと通りやってしまうと、他にやることはありません。

 できれば、母が熱心に取り組んでいるガーデニングの手伝いでもしたいところなのですが・・。
 実際、「なにか手伝おうか?」と何度か聞いてみたこともあるのですが、母は手伝わせてくれません。
 どうやら、母としては自慢の庭に、他人(しかも素人)に手を出されたくはないようです。


 やることがないわたしはかつての自分の部屋で、かつての自分のベッドに寝転んで、かつての自分が集めていたマンガを読みます。

 これがどういうわけか、全然おもしろくないのです。自分がおもしろいと思って集めていたマンガのはずなのに、です。

 どこをおもしろいと思っていたのかさえ、いまではもうわからないのです。
 それでも時間だけはたっぷりあるので、わたしはどこがおもしろいのかわからないまま、マンガを読み進めます。


 しかしとうとうマンガもすべて読み終えてしまいました。こうなるといよいよ、なにもすることがありません。

 もうただぼんやりとするだけです。日中にあんまりぼんやりとしているせいか、夜あまり眠れなくなってしまいましたが。

 でも、一度だけ思い立って外出したことがあります。それも遠出でです。JRで海へ行きました。冬の寒い日に瀬尾まりさんとデートした海へ、です。

 なんで急にそんな気になったのか自分でもよくわかりませんが、思えば日帰りとはいえ、彼女と旅行したのはその一度だけです。

 JRの駅まではロードバイクで行きました。駅前の駐輪場にロードバイクを止めて、駅の構内に入りました。

 切符を買って、十月の寒くなりはじめたホームで列車がくるのを二十分ぐらい待って、列車に乗り込み、シートに背をもたれます。

 まもなく列車が動きだし、あとはもう列車の揺れに身をまかせるだけです。


「ねえ、どこの駅で下りる?」
「どこでもいいよ」
「海が見たいな」
「いいね」


 列車の揺れに身をまかせていると、瀬尾まりさんの声が聞こえてきます。

 そうでした。このデートはもともとプランしていたわけではなく、クライアントの都合で急に時間ができたので、せっかくだからとはじまったデートでした。


 わたしはかつて瀬尾まりさんとともに下りた駅で列車から下りました。

 さびれた無人駅。ちいさな駅の構内には自動販売機がひとつあるだけです。

 駅を出たわたしは海岸へと向かいました。駅から海岸まではすぐです。わたしは駅から海岸まで、だれひとりに会うこともなく歩きました。海岸では漁師が二人、網の手入れをしていましたが。

 わたしは彼ら漁師二人を背にして海岸を歩きはじめました。

 瀬尾まりさんと歩いたときよりは海はおだやかだったと思いますが、あいかわらずカモメが鳴きながら上空を飛んでいました。

 しばらく歩いていたら、急に疲れてきてわたしは海岸に腰を下ろしました。

 波の音。遠ざかっていくカモメの鳴き声。頬にふきつける、音のない風。潮のにおい。両手にふれている、ざらっとした砂の感触。
 ぼんやりとするわたし。

 
 ふと気がつくと、あたりはもう暗くなりはじめていて、わたしはあわてて立ち上がりました。腕時計を見ると、ちょっとひと休みするつもりが、もう四時間ぐらい過ぎていました。

 なんだか体も冷えきっていたので、わたしはマウンテンパーカーのフードをかぶって、海岸から狭いコンクリートの階段を上がって道路へと出ました。

 そのまま駅に戻って帰るつもりでしたが、わたしは駅から少し離れた商店街に出てしまいました。商店街といっても、そこもまたさびれた商店街なのですが。

 しかし、わたしはおぼえています。この商店街を瀬尾まりさんとともに歩いたのを。腕を組んで、いかにも楽しげに。

 そういえば、そのときわたしたちはこの商店街のおでん屋さんで、おいしいおでんを食べたのでした。


「この大根おいしい」
「うん」
「あれ、たまごひとつしかないよ」
「いいよ、食べて」
「いいの?」
「いいよ」

 
 頭の中にまたも瀬尾まりさんの声が聞こえてきて、わたしはさびれた商店街を何往復もします。そのおでん屋さんを探しているのですが、見つからないのです。

 どうしてあのおでん屋さんがみつからないのか? 
 もしかしてわたしはまちがった駅で下りてしまったのか? 

 いや、それはないはずです。ここの駅の雰囲気、海岸の景色、まちがえるはずはないはずです。
 でも、それではどうしてあのときのおでん屋さんが見つからないのか? 

 わたしはそのさびれた商店街の途中で立ち止まりました。

 あたりが暗くなっていきます。
 もうカモメの鳴き声も聞こえません。
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