第13話 「お世話になりました」
文字数 1,554文字
「よかったら、車で家までお送りしましょうか?」
「ありがとうございます。でも、歩いて帰ります」
「そうですか」
「はい。先生、ありがとうございました」
弁護士の先生とともに警察署を出るわたし。
夏の白い陽射し。熱気。セミの鳴き声。普段なら嫌になるような暑さですが、このときばかりはこの暑ささえすがすがしく感じられました。
今日は八月二日。記念すべき日。結局、留置所には二週間も入っていたことになります。
警察署を出るときに、最後にタカバヤシ刑事に会いましたが、すごい目でわたしをにらんでいました。それこそ親のかたきでも見るような目でした。
わたしはせめてものお返しのつもりで、「お世話になりました」と深々と頭を下げてやりました。
わたしが釈放された理由は、まず第一に証拠が見つからなかったこと。これはわたしは犯人ではないので当然のことです。
第二に、瀬尾まりさんにストーカーがいた可能性があることが判明したからです。
瀬尾まりさんにストーカーがいた可能性をつきとめてくれた刑事さんがいたのです。
こう言ってはなんですが、タカバヤシさんのような頭のわるい刑事ばかりではなく、優秀な刑事さんもいるようで安心です。
取調室で聞こえてきた話では、その刑事さんはスクーターに乗っている、若い女性の刑事のようですが・・。
でもまあ、たとえ何に乗っていようとも、その刑事さんには感謝です。
しかし、まさかストーカーがいたかもしれないなんて・・。
わたしは瀬尾まりさんからストーカーの存在についてはなにひとつ聞いていませんでした。
わたしは彼女に信頼されていなかったのでしょうか?
いや、そうじゃないと思います。
これはおそらくですが、彼女自身もストーカーの存在に気づいていなかったのかもしれません。
あるいは、ストーカーの存在にうすうす気づいていたとしても、それがまちがいなくストーカーだとは確信がもてなかったのかもしれません。
人を疑うことがきらいな彼女です。よっぽどの確証がなければ人をストーカーだとは思わないでしょう。
だとすると、悲しいことです。
もし、実際にストーカーがいて、そのストーカーこそが彼女を殺した犯人で、さらには彼女がうすうすそのストーカーの存在に気づいていたのだとすれば、彼女は「みだりに人を疑わない」という自分の美徳ゆえに、殺害されたかもしれないのです。
まったく、この世はフェアじゃないです。
白くて、まぶしい夏の陽射しの下、警察署の敷地から出るわたし。自由の身になったわたし。よろこびがこみあげてきてとまりません。
自由がこれほどいいものだったとは!
一生ついたままになるかと思っていた留置所のにおいがまたたくまに消えていきます。
「プッ、プッ!」
弁護士の先生の車が、軽くクラクションを鳴らして、わたしを追い越していきます。
弁護士の先生に上機嫌で子供のように手を振るわたし。
警察署から家まではけっこう距離があるのですが、歩くのはまったく苦にはなりません。
実際、楽しいくらいなのです。いまにも汗が出てきそうな感じすら心地いいのです。
家に帰ったらよく冷えたビールを飲もうと思います。きっとおいしいでしょう。おいしいにきまっています。
いや、とそのときわたしの足が止まります。
家だって?
わたしの家?
わたしは不意をつかれたようにどきりとします。
わたしに帰る場所なんてあるのでしょうか?
妻や子供か待っているとでも?
冷えたビールがあるとでも?
どうしていままでその可能性について、わたしは考えなかったのでしょうか? それも、ただの一度も。
わたしはあたりを見回します。見慣れたはずの町。わたしが生まれ育った町。でも、たった二週間でまったく知らない町に変わっているかのようでした。