第36話 ぼくの名前

文字数 1,378文字


 ぼくはスローモーションのように後ろに倒れ、お腹をおさえました。

 どういうわけかあまり痛くはありませんでしたが、血がすごく出ているのがわかります。

「犬が・・」
「ほんとうに生き返って・・」

 はっきりと聞きとれませんでしたが、なんだか男はそんなことをいっていたと思います。

 ぼくはお腹をおさえながら、地面に横になりました。なんだかまったく力が入りません。

 きっとぼくはこのまま死んでいくのです。きれいな星空を眺めながら。

 死に方としてはわるくはないと思いますが、親にはもうしわけないです。なにしろ姉に続いて同じ男に殺されるのですから。

 これから死ぬせいでしょうか? 
 急に耳がよくなったようで、いろいろな音が聞こえてきます。

 大きな川の水の流れる低く、重たい、うなるような音。いままさに人を殺そうとしている男の激しい息づかい。自分の乱れた心臓の音。

 においも、すごく強く感じます。草のにおい。土のにおい。特に土のにおいを強く感じます。このにおい、こどものとき以来でなつかしいです。

 それから、なにかいいにおいがしてきます。そうです、これは姉のにおい。まちがいありません。
 姉がそばにいるのでした。

「あきひと、しっかりしなさい」
「姉さん? なにしてんの?」
「なにしてんのじゃないでしょう」
「だって・・」
「もう、しっかりしなさい!」 

 そこでぼくは姉にビンタされました。

 姉にビンタされたのは初めてです。というか、姉には何度か怒られたことはありますが、ここまで怒っている姉は初めてです。

「前から言おうと思っていたけど、あきひとは甘えてるのよ。いつもいつもそうやってすぐにあきらめて。ほんとはもっとできるでしょう。本気だしなさい!」

 本気?
 はっとして、目を開けるぼく。

 すると目の前にナイフが!
 ぼくは横に転がりました。何度も何度も転がりました。死にたくない、死にたくない、と思いながら。

 しかし転がっているうちに、大きな石が刺されたお腹にあたりました。それがあまりにも痛くて、身動きできなくなりました。

 いままで痛くなかったのに急にです。なんだか右手が小刻みに震えているのがわかります。まじで死ぬみたいです。もうだめです。お父さん、お母さん、ごめんなさい。それから、姉さんもごめん。

 男がぼくにとどめをさそうと、ゆっくりとナイフを振りかざしているのが見えます。正確には、そういうふうに動いている、ぼんやりとした男の黒い影が見えるだけなのですが。

 そのとき不意に、その黒い影が消え去りました。どさっという音。男のうめき声。それから、ポキッという乾いた音。
 それからなにも聞こえなくなりました。


 止まらない血。うすれていく意識。もうあまり痛みはないのですが、体はまったく動こうとしません。

 そういえばこういうとき、走馬灯とやらが見えるはずですが、なにも見えません。だめだめなぼくは走馬灯までこわれているのでしょうか?

 だれかの足音が近づいてきます。

 その足音がぼくのそばで止まったかと思うと、傷口をおさえている、ぼくの血だらけの手の上に、その人があたたかな手を重ねてきます。

 姉のにおいがします。これは姉さんの手なのです。

「あきひと」
「あきひと」
「あきひと」
「あきひと」

 姉さんがくりかえしぼくの名前を呼んでいます。

 急に視界が狭くなってきて、ぼくは目を閉じました。
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