第6話:幸恵が橫浜市大医学部に合格と父の投資成功

文字数 1,656文字

 話を戻すと、菅原家は、1975年6月23日、予定よりも少し早く新築の家が完成。菅原肇の資産で、土地と家の代金の5250万円の支払いを済ませた。その後1975年6月29、30日に大型トラックで会社の社宅から新築いた家に引越をして30日には完了。子供達が喜んで自分の部屋に机を入れて、整理整頓を始めた。

 長男の幸一はステレオセットを搬入し音楽を聞いていた。やがて次女の幸恵は、厚木の予備校に入り勉強を始めて英語と数学の強化のために参考書と問題集を姉からもらって勉強した。次女の幸恵は10月上旬の厚木高校3年の一斉テストでついに学年総合トップになり、進学塾の10月の一斉テストで橫浜市大医学部の合格確率が75%となり、もう一息だと喜んだ。

 冬になっても小さなストーブとコタツに入ってセーターとジャンパーを着て夜遅くまで幸恵は勉強していた。母のタエさんが、お茶を入れに来てくれ、お茶菓子も差し入れた。やがて1975年があけて1976年、初詣でに行き両親と幸恵さんは橫浜市大医学部合格の絵馬を奉納した。1976年2月に受験票を手に入れ下旬の受験を迎え、両親と共に海老名から1時間で金沢文庫の橫浜市大へ行き受験を受けた。

「教室から出て来た時、見直しもできて、あががらず冷静に受験できたと喜んだ」
「3月上旬の合格発表に両親と行き、受験番号を見つけた」
「その瞬間、幸恵の目に涙があふれ母が彼女を抱き寄せ良くやったと誉めた」
 
 そして夕方、父がちょっと奮発して橫浜駅のデパートのレストランで、彼女の好きな料理を食べてからは終始笑顔であった。そして家に帰った。
「兄弟に合格したと報告すると兄が幸恵が医者になっても診察受けたくないと冗談を言った」
「姉の幸子は、さすが、頑張り屋の幸恵、良くやったと言った」
「そして、抱き合って喜び、その目には涙が浮かんでいた」
 
 5月の連休を終える頃、次女の幸恵が橫浜市大医学部の授業が遅いので大学の女子寮に入りたいと言った。1Kで月3万円の家賃であり父が了解と伝えて5月中旬から家を出て寮生活を開始。長女の幸子と次女の幸恵が、株で儲かったら大学生のうちに夏休みハワイ旅行へ連れて行ってと願った。そこで、父が、その時は家族5人で一緒に行こうと言った。その後も幸恵は、毎日熱心に勉強の日々が続いた。

 長女の幸子は毎週の様の以前、友人になった牧師さんの娘の家に行き、日曜日のミサの日、午後の無料英会話教室のアシスタントとして英語の教師のアシスタントとして初心者の日本人に英語を教える補助を手伝っていた。その夕方、夕食をご馳走になったりしていた。上智大学が、通称、ソフィアと呼ばれ、世界最大の教育機関運営組織でもあるキリスト教のカトリック修道会イエズス会が開設した学校。

 暑い夏が過ぎ秋の学園祭シーズン橫浜のセント・ヨゼフ学園の学園祭に友人のアメリカ人と共に出かけ、珍しいビスケットを買って帰ってきた。一方、その頃、長男の幸一は厚木の電気量販店でステレオの販売の責任者に抜擢された。長男の幸一は、本厚木の電気店でも売り上げ上位で、熱心に、お客さんに、商品の説明をしていた。定休日の水曜日は、秋葉原へ行った。

 秋葉原のオーディオの試聴コーナーへ行っては、ポールモーリア、フランシスレイ、レイモン・ルフェーブル、リチャード・クレイダーマンなど、当時はやっていた音楽を片っ端から聴いていてボーナスを使い、中古のアンプ、ターンテーブル、スピーカー、スピーカを買い集めた。それらを新居の自宅の部屋に置いていた。1976年9月、秋葉原駅前のラジオ会館7階にNECビット・インが開設。

 気になって出かけるとTK80というとマイコンの練習用キットが展示してあり興味を持った。そしてNECビット・インに通い出し当時のマイコンに夢中に。マイコンの素晴らしさを家に帰って、父に、今後、パーソナル・コンピューターの時代がきっと来ると熱く語った。長男幸一の話を聞いて日本電気株を買いたいと思い菅原肇は、N証券に聞いてみようと考えた。
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