最終話:菅原肇が、老人ホーム入所後、他界

文字数 1,714文字

 2005年8月1日、菅原肇が、事務所で経理の仕事をしているとき、急に体調が悪くなり、横になった。近くの内科医院にかかると軽度の熱中症だとわかった。その後、横浜の桜井循環器院で、幸恵に精密検査をしてもらった所、大事をとって、高齢だから、横浜市民病院で心臓血管と脳血管を含めて精密検査を受けるように言われた。

 そこで仕事を3日間休み、精密検査を受けたところ心臓血管、脳血管のが詰まり気味だとわかり降圧剤と血流改善剤を投与された。その結果を娘の幸恵に見せると現在の会長業を誰かに交代して隠居生活を始めた方が良いと言われた。そうしないと脳梗塞か心筋梗塞で大変なことになる可能性が高いと宣告された。その後、長男の幸一に話し、菅原肇が、会社の会長を退くことを了承した。

 そして菅原幸一が社長として最高責任者となった。そして1週間後、菅原肇と幸一が話し合い、幸一が社長になることを社内で発表した。これで菅原肇が、会長をおりて顧問となり療養生活に入れることになった。そして、海老名の家をも幸一に譲り、三浦半島の油壷のヨットハーバー近くの高級老人ホームに、奥さんのタエさんと一緒に入居することを決めた。

 9月15日に契約に行き10月1日から入居できた。それからは、仕事から完全に離れて海を眺め体調の良い日にはヨットハーバーを散歩したりした。そして体調も回復して2006年を迎えた。この頃には顔色もよくなった。たまに横浜に観光に出かけ、山下公園、中華街で昼食をとり、元町で買い物をして帰ってこられるまで回復した。この年の夏8月1日から北海道、釧路へ2週間、避暑の旅に出かけた。

  自然観察をし、おいしいものを食べたり天然温泉に入りして快適な夏を過ごした。その後、帰って来て、特に大きな変化はなかった。10月、懐かしのメロディーのディナーショーに出かけ、久しぶりに会社のメンバーと夕食をとり歓談し、うまくいっていると言う話を聞いて安心した。仕事の相手の70%以上は、退職後の高齢者が多く、バス旅、ハイキングなども盛んにおこなわれていると聞かされた。

 その後も「みなとみらい」、山下公園、中華街、元町に月に1、2回に出かけ元気を取り戻した。そして、冬を迎えた。その後、2007年の厳寒期、グアムに避寒旅行に1月16日から1ケ月間、日本企業の経営する長期滞在型リゾートホテルの部屋を借りて出かけた。そこはグアムの中心街からバスで30分の高台にあり、プロスポーツ選手などが冬季の練習に来る大きなスポーツ施設のあるリゾート。

 厳寒期でも昼間晴れていると20度を超え、直射日光の下を歩くと汗びっしょりなるほどだった。そして、週に1、2度、グアムの繁華街に出て、昼食をとったり、飲み物食べ物を買い込んで帰ってきた。体調の良い日には、リゾートのグラウンドを30分夫婦で散歩して、有名プロ野球、サッカー選手のサインをもらったりして楽しく生活した。

 2月中旬、日本に帰ってくるとグアムとの気温差が20度近くあり風邪をひいて体調を崩した。そのため1週間、部屋で寝て過ごし点滴を受けたりした。その後、避暑、避寒は、高齢なので、やめた方が良いと娘の幸恵に忠告された。2007年、油壷で、静か過ごした。2008年12月からインフルエンザで、近くの小学校で学級閉鎖がおき、この老人ホームでも数人のインフルエンザ患者が出て病院に入院した。

 そのため十分に注意していたが2009年1月下旬、菅原肇、83歳は、インフルエンザにかかり、横須賀共済病院の隔離病棟に入院して2月8日、帰らぬ人となった。2月14日、生まれ育った厚木の斎場で葬儀を行い、会社関係者を含め120人もの参列者が、引きを切らさず焼香した。その後、日向薬師霊園に納骨してもらった。

 母が、昔から、お父さんは、ここの曼殊沙華「まんじゅしゃげ」が大好きで、よく来たものよと話してくれた。墓地で、最後のお別れを始めたころ、曇ってきた。
「しかし、その雲の間を引き裂く様に強い太陽の日差が差し込んだ」
「それは、まるで、父が、みんなに最後のお別れしている様に見えた」
「そのため。残された家族たちの目には、涙が込み上げた」
「終了」
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