第30話:バブル崩壊とソニー株買い

文字数 1,536文字

 実は、さかのぼる事、7年前の1984年頃「昭和59年頃」の特金フィーバーといわれた時期から、特金の運用には損失保証が付き物といわれており、1984年「昭和61年」10月末には大蔵省が証券会社2社の幹部を呼び、損失補填のような法に触れる行為が目立ってきたとして厳重注意している。このように、証券不祥事が社会問題化する以前から大蔵省は損失補填等について認識を持っていたと考えられる

 大蔵省は1989年「平成元年」12月26日に大蔵省証券局通達「証券会社の営業姿勢の適正化及び証券事故の未然防止について」を発した。その中で、違法行為である損失保証や特別の利益提供による勧誘は自粛すること、損失保証の温床となっていた一任勘定取引については投資顧問付とする「一任勘定を止める」こと、利回り保証・損失保証については破棄すること、。

 さらに「事後的な損失の補填や特別の利益提供も厳にこれを慎む」ことを証券会社に対して求めた。法に明文の規定のなかった事後の損失補填についてもその自粛を強く促したことの意味は大きい。大蔵省証券局通達、1:法令上の禁止行為である損失保証による勧誘、証券取引法第50条第1項第3号や特別の利益提供による勧誘、証券会社の健全性の準則等に関する省令第1条2号はもちろんのこと、事後的な損失の補填や特別の利益提供も厳にこれを慎むこと。

 2:公募株について「あまり関係がないので省略」、3:特定金銭信託契約に基づく勘定を利用した取引については、原則として、顧客と投資顧問会社との間に投資顧問契約が締結されたものとすること。大蔵省通達の数日後12月29日に日経平均株価は史上最高値を記録したが、1989年1月中旬から株価は下落を始め、バブル経済は崩壊へと向かった。

 そのような状況下で先の通達を受けた契約改定がなされる事となったが、証券会社はその段階で損失が出ている顧客に対して巨額の損失補填を実行したといわれる「定かではないが、大蔵省自身が契約改定段階での補填についてはやむを得ないと指導していたともいわれる」。実際に、日興証券の当時の岩崎社長の国会答弁においても、同通達を受けて担当者間で営業特金を減らすことについて話し合いがあった。

 しかし、株価の大暴落という状況の下で話し合いに波風が立たないということはなく、補填を慎むということが意識的ではないが結果的に軽視された、という旨の発言がある。これは、まさに、遠山の金さんに出てくる、悪代官と越後屋の歓談の席での「越後屋、お主も悪よのう・・・、いえいえ、お代官様ほどでは・・・」を思い浮かべるのは、当然至極のことと考える。まーともかく、これにより日本のバブルの息の根が止まった様です。

 1992年に入り、日本株の下げが、きついと考えた菅原肇は、日本で最も将来性があると睨んだソニー株の下値を買おうと待っていた。そんな1992年3月3日、早朝、証券会社の朝井さんから電話で、ソニー株が3600円で気配値が出ているので、買いとの助言を聞き、1万株3600万円で成り行き買いを指示した。息子の浩一にも電話入れるように頼んだ。その後9時半頃に、菅原肇から証券会社の朝井さんに電話を入れると、幸一も1万株を3600万円で購入したと教えてくれた。

 その結果、始めの投資口座残金が13400万円、幸一の投資口座残金が200万円となった。この年は、桜井君と幸恵の桜井循環器内科医院が、患者さんが多く、狙い通り、高齢化で循環器内科へ来る高齢者が増えてきて、地元の大病院との連携でうまくいってると聞き安心した。3月に、菅原夫妻は、2人だけで、湯河原温泉、箱根に3泊して美味しい料理と満開の桜、芦ノ湖からの霊峰富士の眺めを満喫してきた。
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