第20話:京子さんにも男子の双子が

文字数 1,724文字

 長女の幸子もチャーシューと細切りのさらしねぎ、青菜の塩ゆでなど多くの野菜と一緒にごはんのおかずで、大量に買ってきてのに一晩で10人前が、なくなったのには、加藤君も驚いた。しかし、5月3,4,5日と京子さんは、双子の子の美子と賢一を上手にあやした。すると、お返しとばかりに、とびっきりの笑顔で返してくれるがうれしくてたまらないようだった。そしていると子供達も京子さんになついてきた。

 そして5月5日、昼過ぎ、幸一と京子さんが秋葉原に帰っていった。そして、京子さんが、可愛い子供達を見て、早く私も、可愛い子供達が欲しいわと願うようになると、その願いが通じたのか、5月末日、京子さんが体調が悪いと言い、数回トイレで食べた物をもどした。慌てて、幸一が母に聞くと、熱あるのかと聞くと熱はないと言うと妊娠かも知れないと言い産婦人科に行ったらと伝えた。

 産婦人科に行くと、ご懐妊ですと言われ予定日は1985年11月25日と言われた。梅雨となり、空けると7月、暑い夏になり、幸一と京子さんは、家でクーラーを効かせて。水分補給を心がけ、静かにしていた。お盆が過ぎると朝晩涼しくなり9月になると京子さんのお腹がやけに大きいのを幸一が気づいた。産婦人科の検診の時、一緒について行き、もしかして双子ですかと聞くと、まだわかりませんと言った。

しかし、10月中旬、産婦人科の先生から、双子の可能性が高いと電話が入った。そこで幸一が妊娠・出産の関連の本を読むと、古い言い伝えで、双子の子を産んで、その面倒を見て可愛いなと思った女性が、双子を出産するケースが多いと言われていると紹介されていたが、科学的根拠はない。

 統計的を取ったと言う事実もなく単なる迷信だと考えられていると紹介されている記事が気になった。やがて11月23日、秋葉原から近い産婦人科病院に京子さんが入院した。そして11月25日、やはり、男の子の双子を普通分娩で出産した。その後、京子さんのお母さんが、北海道は冬で、忙しくないから退院したら、手伝いに行くと連絡してきた。

 12月2日、昼過ぎに京子さんの母、黒岩富子さんが秋葉原にやってきた。それを知った幸一の母のタエさんも駆けつけ2人で退院したばかりの京子さんの面倒をみた。双子の男の子の名前を健康になって欲しいと子供達の名を健一、健二と名付けた。すると京子さんが、私は、何て幸せ者なんだと涙を流した。これを見て、タエさんが富子さんに何て素晴らしい娘さんを育てたんでしょうと感動して涙ぐんだ。

 うちの娘達に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいわと言った。亭主の幸一は、女性達の指示に従って、動き回っていた。必要な物を買い出しに行ったり、食料品を買ってきたり、料理をつくったりして、1週間休みをもらい3人で京子さんの面倒を見た。そのうち12月20日過ぎ有給休暇を使い12月21日から1月10日まで、休暇を取って、京子さんの身の回りの世話をした。そして1986年を迎えた。

 京子さんも出産後1ケ月過ぎると、体力も回復して、炊事、洗濯もできるようになった。しかし、春まで、北海道は、雪に埋もれているから、やることはないから、秋葉原のマンションに済んで、手伝ってやるからと言ってくれた。すると、タエさんが、幸子の面倒もみなくてはならないので、正月に海老名へ帰りますと告げ帰った。家に帰ると、幸子が、今月25日で2ケ月になるので実家に帰ると言った。

 橫浜のマンションに亭主のお母さんが、手伝いに来てくれるようだ。そしてM物産は、一度、退職して、子供達が保育園に通わせられる3歳になったとき、再就職をお願いしてみると言い、丹那さんも同意してくれと告げた。やがて、1986年1月25日となり、旦那の運転する車で、帰って行った。娘を見送る時、何かあったら、また、助けに行ってやるから、電話してねと、母が、幸子に言った。

「すると、うれしいと言い、別れが辛くなると言い涙ぐんだ」
「母は、じっと我慢しているように見えたが、その車が走り出すと、タエさんの目の涙は、堰を切ったように大粒の涙となり、こぼれ落ちた」
「その時、父は、母の肩に手をやり、別れのは、いつも辛いねと言い、ぐっと抱きしめた」
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