第16話 秘密の穴場

文字数 1,918文字

 僕の目はおそらく点になっていたと思う。誰がどう考えたって、これは異常な世界だと思った。しかし早川さんは至って冷静だった。

「私って、何かおかしなこと言った?」
「おかしなことって……早川さんの仕事場って、そこじゃぁ、早川さんは裸ってことで、何て言うか、その……」

 ただでさえコミュ障で人との会話が苦手な僕が、こんな話をまともに受け答え出来るはずがない。僕は訳の分からない言葉を繋ぐだけだった。すると早川さんは、表情を変えずに言った。

「まぁ、桐野君の驚く気持ちも分かるわ。でも、桐野君だからこそ見てもらいたいの」
「僕だから?」
「そう」

 早川さんはそう言うと、一歩下がって僕を威圧するように言った。

「私、知っているの」
「え、何を知っているんですか」

 早川さんはまたさっきのように意味深な笑みを浮かべると、両腕組んで小首を傾げるようにして悪戯っぽく言った。悪女感が満載だった。僕は蛇に睨まれたカエル状態だった。

「ねぇ、桐野君」
「はい」
「高校の時、私の姿を遠くからずっと見ていたでしょう?」
「はい」

 僕はまるで容疑者が刑事の尋問を受けるように小さくなっていた。

「私がグラウンドで走っていた時も、少し丘になっている校門の所から見ていたでしょう。覚えているかな。桜の木が一本だけあった場所」
「はい……覚えています」

 僕はまた驚かされてしまった。僕が早川さんを遠目に観察するように見ていたのは事実だから、今さら否定する気なんてないのだが、桜の木の場所のことまで覚えているなんて、早川さんは僕のことをいつから知っているのだろう。考えるとちょっと怖くなる。

 早川さんは全く口調を変えずに続けていた。

「あの桜の木のある所ね……覗きの穴場だったってことは知っていたの?」
「うっ」

 僕は体中の血液が逆流するかと思った。

 早川さんが言う穴場という意味は、その桜の木のある場所からグラウンドはよく見渡せるのだが、実はもう一か所、偶然ではあるのだが見えてしまう場所があったのである。それは女子更衣室であった。
 グラウンドの端には陸上部やサッカー部の部室が並んでいて、その一画に男女の更衣室もあった。そしてその女子更衣室の西側の窓はグラウンド側からは見えないようになっているが、こちらからは窓が開いていると中の様子が全てではないにせよ見えたのである。

 僕がそのことを知ったのは偶然だった。しかし他の男子の中には既に知っていた連中もいたようで、時々こっそりと覗きに来ていた生徒もいた。
 僕はいくら覗けたからと言ってそれが目的であの場所にいた訳ではないのだが、正直言えば早川さんの生着替えを想像して心臓をバクつかせていた時もあった。

 こんなことは早川さんには知られたくはなかった。しかし今の早川さんの口ぶりだと、僕も『覗き』の常習者とみられていると思った。そしてもう逃げも隠れも出来ないと思った。

「あの、すいません。わざとではないのですが、偶然……二、三度」

 早川さんは笑っていた。

「いいのよ。気にしないで。でもね、そんな風にこそこそしなくても、今は堂々としていればいいのよ。だって、あの頃、桐野君が更衣室を覗いていると分かっても、私は全然平気だったもの」
「ど、どうして?」
「だって、桐野君の視線を感じてそちらを見ても、いやらしさなんて全く感じなかったわ。どうしてか私にも分からないけど、いつも桐野君に見つめられていたから、免疫が出来たのかな」
「免疫?」
「そう。桐野君に見つめられているのが普通……みたいな?」

 早川さんはそう言って、また小さく小首を傾げた。たまらなく愛らしい姿だった。

「だから、私の何も身に付けていない素の姿を見られても、私は全然気にならないわ。それよりも、桐野君には私の全てを知っていてもらいたいの。この前久しぶりに会ってお酒を飲んだ時、初めてだったけど私、思ったの。桐野君だけは昔とちっとも変わっていないって。そして桐野君なら、本当の私を理解してくれるんじゃないかなって。こんな仕事をしていると、どんなに親しい友達でも変に誤解したりしてね……でも、たった一人でいいから、私のことを理解してくれる人がいてくれたら、それで私は満足なの。それが理由だと言ったら納得してくれる?」

 早川さんはそう言って一歩近づくと、また上目使いで僕を見上げた。僕には反論する言葉も無かった。そして早川さんが僕を、そんな風に思ってくれていたことが嬉しかった。

 僕には早川さんの気持ちの本当の所は分からないが、彼女がそこまで言うのならその通りにすることが、彼女にとって最良の道なのだろう。僕は思い切ることにした。

「分かりました。行きます」

 早川さんの顔がパッと輝いたように思えた。
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