第11話 早川さんは知っていた

文字数 1,977文字

 人は美味しい食べ物と、適度なアルコールがあると心が豊かになるようだ。僕の心の中にも少しだが余裕のようなものが出来ていた。

 僕は酒の力も借りて尋ねてみた。

「早川さんは、今日どうして僕を誘ってくれたの?」

 彼女は不思議そうな顔で答えた。

「おかしいかな。だって同窓生だよ。久しぶりに声を聞いたら会いたくなった……これって普通じゃない?」
「普通?」
「うん」

 早川さんはそう言って僕をじっと見つめた。僕は思わず目を伏せていた。

「だ、だって、僕は早川さんと一度も話したこともないのに……」

 すると早川さんは白い歯を見せて笑った。

「話したことは無くても、桐野君のことは充分に知っているわ。あれだけ毎日見つめられたら、誰だって意識するわよ」
「意識って、そんな……」

 僕は全身が熱くなるのが分かった。早川さんは僕を意識してくれていたのだ。僕はもう一度あの頃に戻れるものなら、何とか勇気を振り絞って声を掛けるのにと心底思った。

 すると突然、早川さんはそれまでの笑顔から、急に真顔になって言った。

「まぁ、確かに懐かしさはあったけど、実を言うね。昔の友達と会うなんて、本当に久しぶりなの。電話でも言ったけど、皆、私の仕事を知った時から急によそよそしくなるの。そりゃそうよね。人には簡単に言えないような仕事なんだから仕方がないわ。でも、私としたら懐かしい友達であることには変わりはないのよ。それは分かってくれるでしょう」
「うん」

 もしかすると早川さんは寂しかったのかもしれない。自分の口から「私はAV女優をやっている」なんて言い難いだろうし、僕が山岸君から早川さんの仕事を聞いた時のように、人づてで聞こえてきたりなんかすると。それは当然のように噂話として広まるのは目に見えている。
 そうなると人間なんていい加減なもので、昔どんなに親しくしていても噂の主と関わるとなると、自分もその仲間と思われるのではないかと距離を取ってしまうのである。おそらく早川さんはこれまでに、そんな経験を何度も繰り返して来たのかもしれない。そして一人、二人と自分の傍を離れて行く友人達をただ見送っていたのかもしれない。

 僕は今の早川さんの綺麗な姿を見るにつけ、彼女の心の奥底には誰にも知られないような寂寥感が漂っているのではないかと思った。


 早川さんは既にハイボールに替わっていたグラスを回しながら言った。

「桐野君は私が誘ったって言ったけど、そんな気持ちにさせたのは桐野君なのよ。ブログで『やせめがね』って名前を見つけた時、私にしたら桐野君が私を見つけてくれたって気がして、それが嬉しかったのよ。そして桐野君なら、昔と同じように付き合ってくれるんじゃないかなって思ったの」
「そ、そうなんだ」

 僕は照れていた。しかし僕のつまらないコメントでそんな風に思ってくれていたことは、僕としては嬉しい誤算だ。僕はどうしても訊きたかったことを尋ねることにした。今なら、彼女もそんなに気分を害することは無いと思ったからだ。

「早川さん。訊いていいかな」
「なぁに? 改まって」
「もし嫌だったら答えなくてもいいんだけど。早川さんはどうして今の仕事に就いたの?」

 僕は彼女の「そんなの別にいいじゃない」ぐらいの軽い返事を期待した。そうすれば僕自身も「そうだよね」なんて軽口を叩きながら、それ以上彼女の心に踏み込む必要もないと思えたのである。

 しかし早川さんはグラスを置くと、今日一番の真面目な顔で僕に言った。

「聞きたい?」

 僕はすぐにでもうなずきたかった。しかしただの興味や好奇心だけで尋ねたのではないことは分かって欲しかった。

「うん。でも、これは早川さんの気持ち次第だから、本当に答えたくなかったらいいんだ。決して『どうしても』って訳じゃないから、深く考えないで」

 僕は念を押すように同じ言葉を繰り返した。早川さんは普通の笑いとも、苦笑いとも言えない微妙な笑みを浮かべていた。

「桐野君って優しいんだ」
「いや……そんな、優しいだなんて……」

 早川さんはまた髪を一度かきあげると、決心したように話した。

「そうよ。桐野君は優しいわ。正直言うとね。今日までに何人もの友達に訊かれたわ。桐野君と同じ質問をね。でもその人達は、いつも人の秘密を探るような目で私を見るのよ。そしてそんな人達が陰で何を言うのかぐらいは想像出来るわ。でも桐野君が言うと、それは桐野君の興味本位じゃない本心からだって分かるの」
「どうして」
「そりゃ、分かるわよ。三年間もの間、気がついたら桐野君の視線を感じていたのよ。そんな桐野君が今の私の仕事が気になるのは当然だと思うわ。そんな桐野君がこんな私にあんなに優しいコメントを入れてくれたんだもの。単なる好奇心からの質問じゃないってことは分かるわ。今の私にしてみたら、桐野君は特別な存在かもね」
 僕は照れるしかなかった。
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