第34話 新聞記事
文字数 2,177文字
僕がオムライスを作ることが、そんな大事件なのだろうか。早川さんの今の驚きようから考えると、僕がオムライスを造るということが、相当意外だったらしい。
早川さんは身を乗り出して言った。
「一度、食べてみたいな」
「僕のオムライスを?」
「そう。桐野君が造るオムライスって、考えただけで楽しくなるわ。ねぇ、今度桐野君の部屋に行った時に造ってよ」
「僕の部屋に?」
早川さんが僕の部屋に来たいと言った。僕はまた有頂天になってしまった。もう何度も早川さんと二人だけで会っているのに、少しでも新しい展開があると舞い上がってしまう。
あの早川さんが僕の部屋に来て僕の造った料理を口にするなんて、想像すら出来ていなかった。これを『幸せ』と呼ばずして何と呼ぶだろう。
「来てもいいけど、狭くて汚いよ」
「全然平気よ」
僕は全身が溶けるのではないかと思った。そして心の中には、またくだらない妄想が浮かんだ。
未婚の女性が異性の部屋を訪れる。それは相手の異性を信頼しきった時にしか出来ないことだと僕は思う。だとしたら、早川さんは僕を信頼しているという証になる。
まさかとは思うのだが、話がこんな風に進むということは、早川さんは僕に『付き合ってください』と告白しているのではないだろうか。
しかし相手は僕の女神である早川さんである。そう簡単に僕の妄想の通りになるとは思えない。いくら特別な関係になったとしても、それは恋愛感情があってそうなったのではなく、言わば事故のようなものだ。
僕は喉元まで来ていた『今からでも』という言葉を無理矢理飲み、至って平静を装って言った。
「じゃあ。いつか」
「約束よ」
「うん」
僕はまた一つ、明日を迎える楽しみが増えたと思った。そして早川さんも嬉しそうに言った。
「楽しみだな。桐野君のオムライス。でも明日からイベントが続くし、その後は撮影が続くし……その後も何だかんだが続くのよね。桐野君の部屋にゆっくり行けるとなると、一ヶ月ぐらい先になるけど、いいかな?」
「僕はいつでも」
「じゃあ、その頃に連絡するわ。どうせゆっくりするならなら日曜日の方がいいんじゃない?」
「いいですよ」
「じゃあ、それで決まり!」
僕達は今日何度目かの乾杯をするのだった。
グラスを置くと早川さんは「ちょっと、トイレ」と言って、足元のバッグからポーチを取り出して部屋を出て行った。
独りになった僕は何とも手持無沙汰で、食べかけの焼き鳥を口に含みながら、早川さんが来るなら部屋の掃除をしなければ、などと考えていた。
すると足元にある僕のバッグに足が当たった。そして貰ったDVDのことを思い出してしまった。持って帰っても観る気が起こらないのならどうしたものかと考えたが、パッケージぐらいは観て置おこうかと、僕はあの封筒を取ろうと腰を曲げた。
すると早川さんのバッグに新聞が畳んで突っ込まれていた。ポーチを出す時にでもはみ出たのかもしれない。
僕はふと思った。その新聞はどこの家庭にでも届く一般紙のように見えるが、早川さんが新聞を読む姿がどうもイメージ出来ない。
もちろん、彼女が新聞を読まないということはないとは思うが、僕の会社の女子社員の中で休憩室で新聞を読むなんて人は誰もいないことを考えると、かなり特殊だと思わざるを得ない。
そうなると早川さんは、この新聞で読みたい記事があったからという考え方に帰着する。ではその読みたい記事とは……僕の中の好奇心が疼いた。
僕はまだ早川さんが戻らないことを確認すると、その新聞紙をそっと取り出して広げてみた。当たり障りのない普通の新聞である。ただその日付に違和感があった。三日前の新聞だったのである。
新聞なんて三日も経てば古新聞である。そんな新聞を今日までバッグの中に仕舞っている早川さんの理由が分からなかった。
僕が三面記事の方から順番に目を走らせると、ある記事の所で僕の目は止まった。その記事は赤のボールペンで丸く囲ってあった。
それは新聞の経済欄の中によくある会社の社長人事に関する記事で、僅か数行の小さな記事だったのだが、その顔写真入りで紹介されていた会社名を見て僕は息を飲んだ。
その会社は、以前に祥子さんが教えてくれた早川さんが退職した会社だったのである。しかもその小さな顔写真の下に簡単な略歴が書いてあるのだが、今度新社長になる人物とは、人事部長、企画部長と歴任した元社長の長男だということである。
元人事部長で社長の息子……僕の新聞を持つ手が無意識に震えた。この男なのだと、僕は確信した。
早川さんを弄び、妊娠させ、挙句にはパワハラで会社にいられなくした男がこいつなのである。その為に早川さんはAVの世界に身を投じてしまったのである。
僕は全身の血液が一瞬にして沸騰したかと思うほど熱くなった。僕の中でずっとわだかまっていた正義感から来る強烈な義務感が僕の体を貫いた気がした。
人間、怒りが頂点に達するとやたらと何かに当たり散らすものだと思っていたが、どうやらそうではないようである。僕は至って落ち着いていた。全身を貫く刺激があった後、それまでの怒りは急速に下火になると同時に、僕の心は不気味なほど静かになっていた。
僕は思った。こんな感覚が前にもあったような気がするのだが、何時だっただろうか。それとも僕の単なる既視感なのだろうか。
早川さんは身を乗り出して言った。
「一度、食べてみたいな」
「僕のオムライスを?」
「そう。桐野君が造るオムライスって、考えただけで楽しくなるわ。ねぇ、今度桐野君の部屋に行った時に造ってよ」
「僕の部屋に?」
早川さんが僕の部屋に来たいと言った。僕はまた有頂天になってしまった。もう何度も早川さんと二人だけで会っているのに、少しでも新しい展開があると舞い上がってしまう。
あの早川さんが僕の部屋に来て僕の造った料理を口にするなんて、想像すら出来ていなかった。これを『幸せ』と呼ばずして何と呼ぶだろう。
「来てもいいけど、狭くて汚いよ」
「全然平気よ」
僕は全身が溶けるのではないかと思った。そして心の中には、またくだらない妄想が浮かんだ。
未婚の女性が異性の部屋を訪れる。それは相手の異性を信頼しきった時にしか出来ないことだと僕は思う。だとしたら、早川さんは僕を信頼しているという証になる。
まさかとは思うのだが、話がこんな風に進むということは、早川さんは僕に『付き合ってください』と告白しているのではないだろうか。
しかし相手は僕の女神である早川さんである。そう簡単に僕の妄想の通りになるとは思えない。いくら特別な関係になったとしても、それは恋愛感情があってそうなったのではなく、言わば事故のようなものだ。
僕は喉元まで来ていた『今からでも』という言葉を無理矢理飲み、至って平静を装って言った。
「じゃあ。いつか」
「約束よ」
「うん」
僕はまた一つ、明日を迎える楽しみが増えたと思った。そして早川さんも嬉しそうに言った。
「楽しみだな。桐野君のオムライス。でも明日からイベントが続くし、その後は撮影が続くし……その後も何だかんだが続くのよね。桐野君の部屋にゆっくり行けるとなると、一ヶ月ぐらい先になるけど、いいかな?」
「僕はいつでも」
「じゃあ、その頃に連絡するわ。どうせゆっくりするならなら日曜日の方がいいんじゃない?」
「いいですよ」
「じゃあ、それで決まり!」
僕達は今日何度目かの乾杯をするのだった。
グラスを置くと早川さんは「ちょっと、トイレ」と言って、足元のバッグからポーチを取り出して部屋を出て行った。
独りになった僕は何とも手持無沙汰で、食べかけの焼き鳥を口に含みながら、早川さんが来るなら部屋の掃除をしなければ、などと考えていた。
すると足元にある僕のバッグに足が当たった。そして貰ったDVDのことを思い出してしまった。持って帰っても観る気が起こらないのならどうしたものかと考えたが、パッケージぐらいは観て置おこうかと、僕はあの封筒を取ろうと腰を曲げた。
すると早川さんのバッグに新聞が畳んで突っ込まれていた。ポーチを出す時にでもはみ出たのかもしれない。
僕はふと思った。その新聞はどこの家庭にでも届く一般紙のように見えるが、早川さんが新聞を読む姿がどうもイメージ出来ない。
もちろん、彼女が新聞を読まないということはないとは思うが、僕の会社の女子社員の中で休憩室で新聞を読むなんて人は誰もいないことを考えると、かなり特殊だと思わざるを得ない。
そうなると早川さんは、この新聞で読みたい記事があったからという考え方に帰着する。ではその読みたい記事とは……僕の中の好奇心が疼いた。
僕はまだ早川さんが戻らないことを確認すると、その新聞紙をそっと取り出して広げてみた。当たり障りのない普通の新聞である。ただその日付に違和感があった。三日前の新聞だったのである。
新聞なんて三日も経てば古新聞である。そんな新聞を今日までバッグの中に仕舞っている早川さんの理由が分からなかった。
僕が三面記事の方から順番に目を走らせると、ある記事の所で僕の目は止まった。その記事は赤のボールペンで丸く囲ってあった。
それは新聞の経済欄の中によくある会社の社長人事に関する記事で、僅か数行の小さな記事だったのだが、その顔写真入りで紹介されていた会社名を見て僕は息を飲んだ。
その会社は、以前に祥子さんが教えてくれた早川さんが退職した会社だったのである。しかもその小さな顔写真の下に簡単な略歴が書いてあるのだが、今度新社長になる人物とは、人事部長、企画部長と歴任した元社長の長男だということである。
元人事部長で社長の息子……僕の新聞を持つ手が無意識に震えた。この男なのだと、僕は確信した。
早川さんを弄び、妊娠させ、挙句にはパワハラで会社にいられなくした男がこいつなのである。その為に早川さんはAVの世界に身を投じてしまったのである。
僕は全身の血液が一瞬にして沸騰したかと思うほど熱くなった。僕の中でずっとわだかまっていた正義感から来る強烈な義務感が僕の体を貫いた気がした。
人間、怒りが頂点に達するとやたらと何かに当たり散らすものだと思っていたが、どうやらそうではないようである。僕は至って落ち着いていた。全身を貫く刺激があった後、それまでの怒りは急速に下火になると同時に、僕の心は不気味なほど静かになっていた。
僕は思った。こんな感覚が前にもあったような気がするのだが、何時だっただろうか。それとも僕の単なる既視感なのだろうか。