第9話 その日が来た

文字数 2,229文字

 早川さんと電話で話せてから十日後、僕はあの後改めて彼女から貰ったメールで、指定された約束の場所に来ていた。しかし約束の場所と言っても、人通りの多い地下鉄の入り口である。しかも今は夕方の帰宅ラッシュのド真ん中の時間帯である。
 こんな人目の多い所で大丈夫なのだろうか。彼女の仕事が仕事だけに、早川さんは周りの目が気にならないのだろうか。僕は人のことであるにも関わらず、あれこれ気を回すのだった。

 やがて指定された時間が近づいて来た。僕の鼓動はとてつもなく早くなっており、握った両手の中はもう汗でびっしょりである。目の前を通り過ぎていく人の全員の目が僕に注がれているような気がしてならなかった。

「お待たせ。桐野君」

 ふいに背後からの声掛けに、僕は心の準備も整わないうちに振り返ってしまった。そして思わず呟いてしまった。

「あ、早川さんだ」

 何とも間の抜けた話である。早川さんと会う約束したのだから、そこに彼女がいるのは当たり前なのに「あ、早川さんだ」は、あまりにも間抜けすぎる。僕は顔全体が赤くなるような気がした。

「待った?」

 早川さんはそんなことなど気にならないようで、そう言いながらごく自然に僕の隣に立った。そして僕は初めて知った。僕は彼女より背がかなり高いのだ。
 高校生の頃は一緒に並んで立つなんてことは全く無く、しかも遠くから眺めるのがほとんどだったので気がつかなかったが、僕の方が随分背が高いのである。僕は早川さんの顔を見下ろす感じになっていた。

 そして彼女と目が合った瞬間、僕の理性は今にも崩れそうなほど動揺した。あの女神とも思えた早川さんが僕の隣にいるという、考えもしなかった現実が問答無用と僕の目の前にあるのだ。

 今日の早川さんは上下とも黒のパンツスタイルで、白いシャツの胸元には銀色のネックレスが輝いていた。髪は昔と違って黒髪ではなく、少し茶の混ざったダークブラウンとでもいうのだろうか。そしてそれを高校時代と同じく頭の後ろで一つに束ねている。
 さらにブランド物のバッグを左手に引っ掛けるように持つ姿は、どう見ても丸の内辺りのキャリアOLか国会議員の秘書のようだ。

 さすがに十年も経つと昔のような『可愛さ』ではなく、成熟した大人の女性という感じが漂っている。ただ、彼女の仕事を考えた時、もっと妖艶な感じがするのかとも思ったが、これでは彼女がAV女優であることなど、誰も気付かないだろう。

 僕は十年ぶりに早川さんに会えた感激と今の幸せ感で、言葉も忘れて早川さんを見つめるしか出来なかった。そんな僕の視線が気になったのか、早川さんは照れたように言った。

「桐野君。どうしたの? そんなに見つめたりして、私の顔に何かついているの?」
「あ……いや……そんなんじゃなくて……その」

 何も話せないでいる僕に痺れを切らしたのか。早川さんはいきなり僕の腕を掴むと強い力で引っ張った。

「さぁ、行きましょ!」
「あ……うん」

 もう、されるがままの僕だった。
 早川さんがどこに向かっているのか知らないが、僕は夢の中を歩いているような気がしていた。あの長年憧れ続けた僕にとっては雲の上の存在が、いきなり僕の腕を掴んでいるのである。

 僕は歩きながら極端な横目で何度も彼女を確認し、これは現実なのだとこみ上げる歓喜の気持ちを噛みしめていた。
 ただ、通り過ぎる人々の目がやたらと気になる。僕の勝手な思い込みだと思うのだが、やっぱりAV女優と一緒に腕を組んで歩いているとなると、つまらないことに頭が回ってしまう。

 僕は遠慮がちに尋ねた。

「あの、早川さん。一つ訊いてもいいですか」
「何?」
「あの……気分を悪くしたら謝りますけど、早川さんは気にならないのですか?」

 早川さんは大きく目を開いて驚いたようだった。

「気になるって……何が」
「だから……その、周りの人が早川さんを見て……その」

 僕が言い難そうに言葉を濁していると、早川さんは僕の訊きたいことが理解出来たのか、笑って答えてくれた。

「もしかして桐野君。周りの人の中に、私のDVDを見た人がいるんじゃないかって気にしているの?」
「あ……うん」

 早川さんは何にも気にならないようで、さらっと言った。

「そりゃいるでしょうね」
「えっ、認めるんですか」
「当たり前じゃない。こっちは商業目的でやっているんだから、当然それを買って観ている人はいるでしょうね」
「早川さんは、平気なんですか」

 早川さんは真面目な顔で僕を見上げていた。

「平気よ。だって観られるのが仕事なんだから、それが嫌だったらこの世界には入らないわ」

 僕は平然と言い切る早川さんを見て少し安心した。そして「仕事」と言い切る姿に感動すら覚えた。早川さんは僕の腕を持ったまま、前を見て言った。

「私達の周りにいる人間の内、半分は女性よ。女の人がAVを積極的に観たりすると思う?」
「いや、そんなにはいないような……」
「でしょう? そしてここにいる男性が、全員観たというのも行き過ぎた考えじゃない?」
「それは、そうですね」
「だからこの雑踏の中で、私がAVに出ていることを知っている人なんて、はっきり言って桐野君ぐらいよ。後はサハラのゴマね」
「サハラのゴマ?」
「そう。サハラ砂漠のどこかに落としたゴマ粒を探すようなものってことよ」

 僕は早川さんの割り切り方が羨ましかった。僕にはこんな明快に自分を割り切って見ることなど到底出来ない。ついあれこれ考えてうじうじしてしまう。情けないの一言だった。
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