第22話 懇願と決断

文字数 1,552文字

 普通の恋人同士の間で「私を抱いて」などと彼女から言われれば、男は必ずうなずくに違いないだろう。しかし、今は状況が全く違う。

 そもそも僕は高校時代という人生の一時期だけ、早川さんを遠くから見ていただけの似非ストーカー男である。そして十年ぶりに出会っただけの同窓生なのである。恋人同士なんて言える筋合いではないのだ。
 その上、自分達のセックスを他人に見せつけるのである。どう考えても普通の恋愛の流れの中では有り得ない話である。

 さらに言わせてもらえれば、僕には出来ない大きな理由があるのだ。僕は自慢ではないがこの歳でまだ童貞なのである。

「でも、そんな簡単に抱かれるとか、代わりをやるとか、一方的に言われても……」

 僕が頑なに拒んでいると、早川さんが耳元で囁いた。

「今日だけ。今日だけでいいの。ダメ? 桐野君なら出来るわ」

 頭の中では絶対に出来ることではないと完全拒否しているのだが、大きな瞳で刺すように見つめられると、どうしても気持ちがざわついてしまう。これも僕が早川さんをあまりにも特別視しているせいだろうか。
 気持ちと体は時として裏腹の反応を示すことがある。完全拒否を決めているはずなのに僕の股間は反応し始めている。これは絶対に早川さんには知られてはいけない。僕は早川さんに背を向けるように座り直した。

「いくら早川さんの頼みでも、無理なものは無理です」

 すると早川さんは僕の腕を持って、信じられない程強い力で腕を引っ張り、こちら側を向かせた。そこには間近に早川さんの顔があった。

「大丈夫。桐野君なら出来るわ。絶対に……」

 早川さんがどうして今日の撮影にこだわるのか分からない。予算が少なく取り直しがしにくいと言う業界事情は理解出来る。しかし見学にきている昔の同窓生を、いきなりAV男優の代役にするなんて、乱暴にもほどがあるというものだ。

 僕がさらに拒もうと口を開けた時、先に早川さんの方が言った。

「お願い」

 その瞬間。僕には何も言えなくなった。

 好きな女性の言葉には不思議な力がある。
 到底不可能と思われることでも、彼女の「出来るわ」の一言で出来たりする。そして真っ直ぐに見つめられて「お願い」と懇願されると、どれだけ躊躇していたことでもつい一歩を踏み出してしまうのである。それはまるで強烈な暗示をかけられたようなものだった。

 僕は彼女の視線に囚われたまま言ってしまった。

「本当に僕でいいのかな」

 早川さんの顔に笑みが浮かんだ。

「大丈夫。私がいるから」

 早川さんはそう言うと、監督たちの相談の輪の中に慌ただしく入って行った。


 早川さんや監督が数分間、何事かを相談していた後あの女性が僕の方に来て言った。

「あんた。本当に大丈夫なの? これから自分が何をしようとしてんのか分かってんの?」

 正面切ってそう言われると僕には何も言えなかった。しかし一度認めてしまったことをすぐに撤回するなんて早川さんの手前、僕には出来ない。
 僕は震えそうになる声を咳払いでごまかしながら答えた。

「分かりません。でも、頑張ってみます」

 僕は相当の覚悟で答えたつもりだったのだが、その女性はあからさまにいやらしい目で僕を見て言った。

「そう……ならいいんだけど」

 言葉にもどこか棘があるようだった。後から来た監督も僕の体をじろじろ見て言った。

「まぁ、背に腹は代えられないってこともあるし……とにかく一度やってみてダメだったら、今日はもう撤収だな」

 監督の言い方には、端から僕には期待していないと言う諦めの気持ちがこもっていた。僕も「頑張ってみます」とは言ったものの、自信なんて全く無かった。

 そうこうしている内に撮影の準備も整ったようなので、僕はあの女性に言われるままにキッチンの隅に連れて行かれ、ビジネススーツに着替えさせられた。
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