第20話 アクシデント

文字数 1,255文字

 早川さんはのど飴で、今度は左側の頬を膨らませながらさらに言った。

「それにね。私達の世界じゃ健康診断は普通の人の倍以上受けているわ。特に性病検査はね。多分、桐野君はそんな検査を受けたことはないと思うけど、こっちじゃ普通だからね」

 確かにそうだと思う。病気持ちの女優や男優が何も知らずに演技をして、それで感染症になったら、彼等彼女等の責任問題になるに違いないのである。しかし考えてみると、『性病検査』なんて単語が普通に飛び交う世界と言うのも僕の感覚ではこと世界である。

 僕はそんな世界で五年間も頑張っている早川さんに、プロ意識のようなものを感じてしまった。そしてそのプロ意識というものが、僕には欠けているとも思った。

 僕と早川さんがそんな話をしていると、部屋の外で話し込んでいた監督とあの女性が戻って来て、揃って苦虫を噛み潰したような困り顔を見せた。

 二人の顔を見た早川さんが尋ねた。

「どうしたんですか? 二人揃って浮かない顔をして」

 すると女性の方が頭を掻きながら、眉間のしわを深くして呟いた。

「困ったことになったのよ」
「何が起こったの?」

 女性は一度、僕の顔をチラリと見たような気がした。

「あのさ、今日来る予定だった東郷君が急に来られなくなったのよ」
「えーっ! 東郷君が来られないの」

 早川さんも一瞬驚きの表情を見せた後、「うぅん」と唸り込んでいた。何も分からない僕は早川さんにそっと訊いた。

「何が起こったのですか?」

 早川さんは小声で教えてくれた。

「今日来るはずだった男優の人が来られなくなったって言うのよ」

 確かに男優がいなければ作品は成立しないのだろうが、特に大仰なセットを作った訳でもなく、登場人物が何十人もいる訳でもないのだから、僕にこの場の危機感は伝わってこなかった。

「じゃあ、改めて取り直しなのですか?」

 何も知らない僕が気軽に言うと、監督が鼻で「ふん」と笑いながら、僕を見下ろして言った。

「素人のあんたはそう思うだろうけど、こっちは大変なんだ。ここを借りるのに幾ら掛かっていると思う? 納期だってあるし、飛鳥のスケジュールも改めて押さえなきゃならない。その他に細かな出費を考えると大赤字になっちまう」

 監督の言葉を聞いた早川さんが僕の耳元で言った。

「私達の世界は低予算が当り前なの。DVD一本でどれだけ利益が出ると思う? 哀れなものよ。雀の涙ほどの利益を積み上げて私達は何とかやっているの。たった一日の遅延でも、会社としたら大変な損失になるのよ」

 僕はこの世界の利益構造なんて分からないが、早川さんのいうことは理解出来た。確かにこの手の作品を制作するのは弱小下請企画会社だろうし、そんな会社に膨大な予算なんて割けるはずがないのだ。僕は何も知らずにこっちの世界に口出ししてしまったことを悔やんだ。

 その間も監督と女性は何やら話し込み、どこかに電話をしたりしていたが埒が明かないようで、さっきまでハンディカメラを触っていた男性も加わり、三人で頭を突きあわせていた。
 何とも言えない閉塞感が漂った。
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