第30話 怒りの行先

文字数 1,656文字

 マンションのキッチンで男女が淫らに体を合わせている。部屋の中は明るく、少なくとも『秘め事』などと表現される世界ではなかった。何しろ周囲には当人同士以外の熱い視線が複数あるのだから、これはもう『別の世界』どころではない。明らかに『異常な世界』である。
 そんな非現実的な世界に身を置いていると、今まで考えもしなかったことを考えてしまう。僕は早川さんを抱きながら考えていた。

 本当なら早川さんを抱くのは、僕より遥かに知的で、地位も金もある見栄えの良い男性であるはずなのだ。しかしどこでどう歯車が狂ってしまったのか、その役が僕にめぐって来ている。

 何がそうさせたのだ。誰がそうしたのだ。

 僕が今こうしているそもそもの原因は、早川さんがAVの世界にいたことにあるのではないだろうか。ではそうなった理由は……あの人事部長かも知れない。彼女に対するパワハラを見て見ぬ振りをした周りの連中かもしれない。
 そんなことを考え出すと、僕の中にあった小さな怒りの炎は、再び揺らめきながら次第に大きくなって行った。

 そして思った。早川さんを守るのはやっぱり僕しかいなかったのだと。

 僕の中の怒りの炎は、早川さんの発する卑猥な声を聞くたびに激しくなって行くようだ。しかし不思議なもので、怒りの炎が燃え上がれば上がるほど、そのやり場のない感情は早川さんに向かっていた。
 僕は早川さんを守れなかった後悔や、こうさせてしまった相手への憎しみがより強く早川さんを責める形になっていた。

 僕はもう無我夢中だった。意識が飛びそうになるのを、何とかこらえながら僕は早川さんを、これでもかといたぶりそして抱いた。
 早川さんはそんな僕を全て受け入れてくれていた。僕がどんなに淫らに扱おうとも、嬉しそうに歓喜の声を漏らす。そして僕の体に巻きつくように絡めた腕や足には、次第に演技ではない力がこもっていく。
 僕の雄の本能が目覚めたと同時に、早川さんの「来て!」という絶叫にも近い声が聞こえた時、僕は早川さんの中に全てを注ぎ込んでいた。

 僕はしばらくの間、早川さんの上でぐったりとしていた。早川さんの荒い息遣いが耳元で聞こえる。そして途切れ途切れに彼女は言った。

「凄かったわよ」

 僕は返事も出来ずに同じように息を荒げていた。
 すると監督の「カット!」の声が聞こえ、その場の雰囲気が少し和らいだ。

 僕がゆっくりと体を起こすと体中に汗が噴き出していた。早川さんも同じようなもので、汗で濡れた額に長い髪が貼りついていた。そこには情事の後の気だるさしかなかった。
 僕は我に返ると早川さんに尋ねた。

「大丈夫なのかな」
「何が?」
「中で出しちゃったけど」

 早川さんは濡れて張り付いた髪の毛を摘まむように戻しながら言った。

「大丈夫よ。今日はそんな撮影の日だったし、ピルを飲んでるから」

 簡単にそう言い切った早川さんの横顔に、僕は祥子さんの言う『したたかさ』を改めて強く感じた。
 やがて祥子さんが僕と早川さんにガウンを渡してくれた。

「なかなか良かったじゃないの。あんた、マジに男優を目指してみない?」
「いや……僕は……」

 早川さんはガウンを羽織ると先にバスルームに向かった。僕は同じようにガウンを着るとあの打ち合わせに使った部屋のソファーに腰を下ろした。

 やがて画像を確認していた監督が戻って来て、僕の隣に座った。

「まぁ、初めてにしちゃぁ上出来って所かな。後半も頼むわ」
「後半? まだあるんですか」
「当たり前だろう。今撮ったのは前振りみたいなもんだ。今からが本番だ」

 僕は何も言えなかった。出来ればもうこんなことはしたくはなかった。しかし、今ここで「嫌です」と言った所で、おそらく早川さんはもう一度だけなどと言って僕を引き留めるだろう。
 僕は大きな溜息をついた。そして心を決めた。今日はもう早川さんが納得するまで付き合うしかない。それで少しでも早川さんの役に立てるのなら、それでいいのではないか。しかしそう思えば思うほど、都合良く自分を正当化しているようで、何とも後味は悪かった。
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