第10話 目の前の早川さん

文字数 2,515文字

 そうこうしているうちに早川さんはある店の前で立ち止まった。

「ここ、ここよ」

 早川さんの声で我に返るとそこには、コンクリートの打ちっ放しの壁に、赤、黄、青の三色のネオンで『焼き鳥BAR 銀鳥』と描かれていた。

「焼鳥屋?」

 僕は思わず訊いていた。僕は彼女のことだから洒落たレストランなどを想像していたのだが、僕の予想は全く外れてしまった。しかし当の早川さんは僕の腕をさらに強く掴んで言った。

「ここはね。穴場なのよ。知る人ぞ知るって感じ? とにかく美味しいの。行きましょう」

 僕達は焼き鳥屋とは思えないアンティークな扉を開けて店の中に入った。すると僕の知っている焼鳥屋とはかなり異なる様相に驚いてしまった。
 僕の考える焼鳥屋とは、紫色の煙がもうもうと立ち込める中で捻じり鉢巻きをした親父が炭火の前で汗を流しながら串を焼いており、その周りの脂ぎった年代物のカウンターにはネクタイを緩めた中年の会社員達がコップ酒を仰ぐ、そんな感じだった。

 しかし今、僕の目の前には木製のカウンターは確かにあるが、決して脂ぎった薄汚い物ではなく、高級寿司店で見かける木目も綺麗な白木のカウンターである。
 そして、捻じり鉢巻きの親父の代わりに揃いの黒のユニフォーム姿の数人の男達が、幅二メートルはありそうな焼き場の前で、実に優雅に焼き鳥を焼いているのである。
 さらに漂っているはずの紫の煙は全てダクトの中に吸い込まれており、店の中には焼き鳥を焼くあの香ばしい香りしかなかった。

 カウンターを取り巻く客達も、ネクタイを緩めた会社員風の男など一人おらず、席の半分ほどを埋めている客達はどこかセレブ風で、きちっとスーツを着こなした男がそれなりに着飾った女性と談笑している。またその中には、これもどこか一流会社のOL風の女性が二人、ワイングラスを片手に何事かを語っている。その二人ともが、とんでもなく美人だった。

「へぇ」

 僕は思わず感嘆の声を上げてしまった。早川さんはそうなる僕を見越していたのか、僕の顔を見上げると軽くウインクして見せた。

「ね! 素敵でしょう」

 その内、僕達の姿を見つけた女子店員の一人が近づいて来て言った。

「お二人様ですか」

 早川さんはもう何度も来ているのか、慣れた口調で答えていた。

「そう。奥の個室は空いているかしら」
「はい。大丈夫です。こちらからどうぞ」

 僕達はその店員に案内されて店の奥の狭い通路抜け、何枚かの襖が並ぶ一画に連れて行かれた。

「こちらで宜しいでしょうか」

 店員がそう言って開けた襖の向こうは六畳ほどの和室になっており、中央に掘り炬燵のようなテーブルが設えられてあった。

「ええ、結構よ」

 早川さんはもう靴を脱ぎだしており、僕も焦って靴を脱ぎ始めた。
 そして僕達はテーブルを挟んで改めて顔を合わすことになった。

 席に着くと早川さんが早速口を開いた。

「ここって、芸能人がお忍びで来るらしいのよ。私は出会ったことは無いけど」
「へぇ、そうなんだ」

 僕は正直言って目のやり場に困っていた。こうやって手を伸ばせば届く所に早川さんがいるなど、今の今まで考えてみたことがなかったのである。
 正面から見る早川さんはやっぱり綺麗だ。そう思いだすと、僕はまた何も言えなくなってしまった。とにかく、こうやって早川さんと二人だけでいるという事実だけで、僕は充分に満たされていた。何か話すと、この充実感が消えてしまうような気がしていた。

 そんな僕を気遣ってか、早川さんは満面の笑みを浮かべて言った。

「桐野君って昔からそうだったの?」
「え? そうって……」
「だから、いつもそんなに無口なの」
「いや、その……」

 僕は早川さんが言うように、会社では無口で通っている。こちらから話しかけないのだから無口だと思われるのは当たり前である。大元を言えば、他人との付き合い方を知らないと言うか、要はコミュ障なのだからこれも当たり前である。しかしそれは早川さんには知られたくなかった。僕は適当な言い訳を考えた。

「十年ぶりに早川さんに会えたから……」

 やっとの思いでそう伝えると、早川さんは僕の全身が溶けてしまうような態度を取った。後ろでまとめていた髪の毛をほどいたのである。

 長い髪の毛が首筋から肩に流れ、しかもその髪を片手で大きくかきあげたのである。彼女の方から甘い香りが一気に僕の方に押し寄せて来た。目の前でこんなことをされたら、僕だけではなく、世の男達の九割は絶対に溶けると思う。それくらい妖艶だった。

「そうね。十年ぶりだもんね。早いね」

 僕は早川さんの妖艶さに圧倒されながら答えた。

「そ、そうだね」
「高校を卒業してから、あの頃の友達と会ったりする?」
「うん。つい最近、山岸君に会った」
「山岸君って、あのバスケの山岸君?」
「そう」
「はぁ、山岸君かぁ、懐かしいな。元気にしてた?」
「うん。医療機器を販売する会社の営業だって」
「営業? そうね。彼らしいかもしれないわ」
「そうだね」

 その時襖が開いて、あの店員が顔を出し注文を取りに来た。早川さんは僕に「何飲む?」「何食べる?」などと尋ねながら勝手に注文していた。
 早川さんはこんなに積極的な人だったのだ。僕は今になって三年間ずっと見ていただけという情けない過去に後悔と共に空しさを感じていた。

 やがて飲み物や前菜、そして焼き上がったばかりの焼き鳥が運ばれて来て、十年ぶりの二人だけの同窓会が始まった。

 型通りの乾杯を済ませ、焼きたての焼き鳥を口にした時、僕は思わず「ううん」と唸ってしまった。とにかく美味しいのである。こんなに美味しい焼き鳥は初めてだった。
 僕の表情を見た早川さんも、同じように口に頬張りながら言った。

「どう? おいしいでしょう」
「うん」
「私も初めて食べた時は桐野君と同じリアクションだったと思うわ」

 本当に早川さんの言う通りだと思った。
 それから早川さんは矢継ぎ早に「あの人はどうしている?」とか、「この人はこんな風に変わった」などと、それこそワンマンショーのように色々と語った。
 僕は「うん」とか「へぇ」などと相槌専門だったが、それだけでも僕は早川さんと恋人同士のように語り合っている感覚になっていた。
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