第8話 夢の中

文字数 2,893文字

 僕は完全に舞い上がっていた。

【もしもし……間違っていたらごめんなさい。私、早川ですけど、これ、桐野君の番号だよね。もし桐野君だったら連絡ください】

 僕のスマホを持つ手は震えていた。そしてスマホを持ったまま何度も生唾を飲んでいた。
 早川さんだ。間違いなく早川さんだ。僕は初めて会った頃の早川さんを思い出した。そしてそれがスイッチだったかのように高校三年間の彼女の姿が一気に蘇って来た。

 僕はスマホの留守録を何度も聞き返した。彼女が親しい友人達と話しているのを近くで聞いたことがあるが、その時の声と全く変わらなかった。
 そしてこれから僕は何をすれば良いのだろうか考えてしまった。ちょっとしたパニックに陥ったかもしれない。早川さんだと確認したにも関わらず、本当に彼女からの電話なのだろうかと疑ったりしたのである。
何と言えばいいのだろう。人間、いきなり思いもしない出来事に遭遇するとこうも取り乱すのだろうか。

 あの三年間、一言も言葉を交わすことも無かった彼女からの電話。もし何も知らずに出ていたら、僕は彼女の声を生まれて初めて耳元で聴き、その衝撃でそのまま倒れていたかもしれない。それくらい僕は興奮していた。冷静にならなければ……僕は何度も何度も自分に言い聞かせた。

 十五回ほど深呼吸をした後、ようやく僕の心臓は落ち着きを取り戻した。同時に僕はこれからどうしなければならないのか、改めて大いに悩み始めた。

 早川さんは連絡が欲しいと言っている。すぐにでも電話をしたいのだが……怖くて手が震える。何を話せばいいのだろう。会いたい気持ちがつのったからこそのこれまでの行動なのだが、いざそのチャンスが来てしまうと、何も出来ない僕がいた。
 誰かに代わりに電話をしてもらおうか。そんなことすら考え始めた時、僕は今が僕にとって自分を変える最高の機会ではないかと思えて来た。そしてこんな機会は、もう二度とやって来ないとも思った。

 今、早川さんに返信の電話が出来ないのであれば、僕は未来永劫、今のままの僕で終わるだろう。しかし、思い切って彼女に電話が出来たなら、そこから新しい僕の人生が始まる気がする。
 僕はそんな風に考えながら、震えながらもスマホのリダイアルを押した。

 呼び出し音が鳴る間、僕は放心状態だったかもしれない。意識が飛んでいた気すらする。しかし呼び出し音が終わり、彼女の声が聞こえて来た時、僕は一気に正気に戻された。
 電話の向こうに早川さんがいた。あの憧れた早川さんがいた。

「もしもし、桐野君? 桐野君なんでしょう?」
「……」

 言葉が喉元まで来ているのに声にならない。僕は焦った。どうしようもなく焦った。するとまた彼女の声が聞こえた。

「私のブログにコメントを入れてくれている『やせめがね』って桐野君なんでしょう?」
「うん」

 やっと一言言えた。そして、彼女が僕のことを認識してくれていたことに驚いた。早川さんは僕のあだ名を知っていたのだ。

 僕はまたまた舞い上がってしまった。すると不思議な事にそしてそれまでガチガチに緊張していた体が、少しばかり楽になった気がした。僕は何とか彼女と会話が出来そうな所まで落ち着くことが出来た。

「は、早川さんは、僕のあだ名を知っていたの?」
「知っていたわ。桐野君、いつも遠くから私のことを見ていたでしょう。私も気付いていたのよ。それで、あの頃友達に訊いたの、あの人は誰って、そうしたら教えてくれたの。その時にあだ名も一緒に教えてくれたわ。電話番号はね。何年か前の同窓会の時に、幹事に頼んで名簿で調べてもらったんだけど。今も同じで助かったわ」

 僕の額から汗が噴き出していた。そして脇にも温い汗が流れる感じがした。
 早川さんは僕が見ていたのを知っていた。しかも僕の名前も知っていたのだ。僕の気持ちは一気に最高潮にまで達した。

 では三年もの間、言葉も交わさずじっと見られていた早川さんは、僕のことをどう思っていたのだろう。やはり気持ち悪いなんて思っていたのだろうか。
 それを想像しただけで、落ち着きを取り戻したはずの僕の体はまた固く強張って行く気がした。しかし早川さんは僕が口を開いたことで、一気に話しかけて来た。

「桐野君。本当に久しぶりね。元気にしてた?」
「あ……うん」
「どこに住んでいるの?」

 僕は問われるままに今住んでいる部屋の住所を口にしていた。すると早川さんが声を出して笑った。

「桐野君って面白いね。どこに住んでいるって質問されて、何丁目何番地なんて現住所を答える人って珍しいわよ。普通は都内とか何々区とか、そんな風に言うけどな。でも、そこが桐野君らしいのかな」
「ごめん」

 また早川さんが笑った。

「そんな……桐野君が謝ることじゃないわ」
「そ、そうだよね」

 すると、しばらく沈黙の時間があったかと思うと、今度はやけに真面目な声が聞こえてきた。

「桐野君。私のブログに書き込んだってことは、私が今、何をしているかは知っているんだよね」

 僕が一番答えにくい質問かも知れない。しかし、今さら何を言った所であの書き込みは僕だと知れているのだから、変にごまかすことは出来なかった。

「うん」

 また沈黙があった。そして彼女の声が聞こえた。

「驚いた?」
「うん。そりゃ……やっぱり」
「そうだよね。普通はそうなるよね。でもね、私は今凄く嬉しいの」
「嬉しい?」
「そう。昔の友達の多くは、私が今何をしているかを知ると皆離れて行くわ。離れて行くって言うか、微妙な距離を取りたがるのね。何となく気持ちも分かるけど、こっちとしたら寂しい気持ちになるわ」

 早川さんが言うことは僕には分かる。何をどう言い繕っても自分の裸を晒すどころか、見ず知らずの男と寝ている所も曝け出しているのだから、同じ世界の人間だとは思われたくないのが心情だろう。

「そうかもしれないね」
「でもね。桐野君はあなたの方から近づいてきてくれたわ。『大ファンです』とか『無理しないでください』なんて、昔の友達にそんな風に言われたのは桐野君が初めてだったもの。こんな懐かしい気持ちにさせてくれたのは桐野君のお蔭よ。ありがとう」
「そんな……僕は……ただ……」

 なぜ今彼女と会話が進まないのか。僕は本当に僕の性格が恨めしかった。これほど自分を語れない僕が情けなかった。そんな、とんでもなく気落ちする僕を救ってくれたのは早川さんだった。

「ねぇ、桐野君。こんな電話じゃなんだから、一度会わない?」
「えっ!」

 天にも昇る気持ちとは、まさに今の僕の気持ちのことだろう。本来の僕の目的はこれだったのだ。早川さんに会う為に、今までジタバタして来たのだ。
 もしかすると一瞬にして却下されるかもしれないと、思っていても口に出せなかった一言を、早川さんの方から言ってくれたのである。僕が有頂天になるのは当たり前だった。

「ぼ、僕でよかったら……いつでも」
「本当? 嬉しいな。じゃあ、改めて連絡するね」

 そうして僕達はアドレスを互いに教え合いスマホを切った。
 それから数時間、僕は意識があるのか無いのか、ただぼんやりと佇んでいた。気がつけば西日が眩しい時刻だった。
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