第36話 変更

文字数 1,308文字

 やがて早川さんは気を取り直したのか、いつもの声で言った。

「それで桐野君。私の方から部屋に行くって言っておきながら何だけど、今から別の場所で会えない?」
「別の場所?」
「そう。ダメかな」

 早川さんは僕の部屋に来ることに抵抗があるのだろうか。口では僕の手料理が食べたいなんて言いながら、心の底では後悔していたのではないだろうか。僕の頭の中には悪い方に考える流れが出来ていた。

 しかしそれは僕の杞憂であった。

「オムライスはまた日を改めていただくわ。これは絶対に外せないから」
「そう……」

 僕は肩の力が抜けて行くのが分かった。

「それで、別の場所ってどこかな」
「桐野君は『水辺公園』は覚えている? 私達の高校の近くにあった公園なんだけど」
「うん。よく覚えているよ」

 水辺公園とは僕や早川さんが通った学校の通学路に面していた公園で、元々は何とかと言う財閥の末裔が所有していた庭だったのだが、個人が所有するには広すぎ、相続税対策もあって区に譲り渡したという公園である。
 その公園はその名の通り中心部に池があって、その中には人工的に作った浮嶋があり、野鳥のサンクチュアリになっていた。

 そして池の周りに遊歩道が造られており、周りはかなりの数の木が植えられ、都内であるにも関わらず緑に囲まれる空間であった。
 そんな公園が近くにあれば、当然僕達は学校の帰りに立ち寄ることは多く、校内で出来上がったカップルの丁度良いデートコースになっていた。無論、僕達以外にも近隣住人の憩いの場になっていたのは言うまでもない。

 しかしそれだけ広い公園であれば管理も中々大変なようで、元々の所有者も持て余していたのか、所々に手入れの行き届かない鬱蒼とした昼でも薄暗い場所が何か所もあった。
 区の管理になってからも早々に手を入れるのも難しかったようで、新しく外灯が何本か立てられただけで、そんな薄暗い場所の整理までは行き届いていなかった。

 どちらかと言えば人目に付きにくいそんな場所であれば、人に言えない事情のある人々や秘密めいた奇行に走る人間が時折集まるようになり、僕達の間にはいつの間にかそんな場所には寄りついてはいけないという不文律が出来ていた。

 そんな水辺公園の名前を口にした早川さんが少し意外だった。

「水辺公園がどうかしたの?」
「久しぶりに水辺公園に行かない?」
「水辺公園で会うってこと?」
「そう。無理かな」

 僕には早川さんの真意は分からなかったが、特段断る理由も無く、申し出を受けることにした。

「平気です。構いません」
「じゃあ、一時間後でどう?」
「いいですよ。公園のどこに行けばいいですか?」
「浮島に掛かる小さな橋があったのを覚えている?」
「うん」
「その橋でどう?」
「分かりました」

 早川さんからの電話は「じゃあ」の最後の言葉で終わった。

 彼女は何を思ってあんな場所に行こうとするのだろう。あの場所は公園の一番奥の部分にあって、手入れの行き届かない鬱蒼した場所の一つである。遊歩道からも少し離れているので女性が一人で行くには少々勇気がいるはずなのだが、早川さんは何ともないのだろうか。

 僕は早川さんの考えを想像しながら出掛ける用意をするのだった。
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