第1話 あこがれ

文字数 1,836文字

 僕は高校一年の春、遅い初恋をした。

 相手は同じ学年の早川弥生さんだ。入学式の日、初めて彼女を見かけて僕の心臓はそれまでになく高鳴った。そして今まで経験したことのない熱い感情が僕の中に生まれた。これが恋なんだ。僕は確信した。

 早川さんは特別な美人という訳ではなく、どちらかと言えば『可愛い』という表現が似合う生徒だった。
 長い髪をいつも頭の後ろで結び、動くとさらさらと流れ動く様子は、初めて女性を意識した僕にとってはそれこそ天女の羽衣のように思えた。それに大きな瞳に小さめの唇で、笑うとアニメのキャクターのように金色や銀色の星が、彼女の周りに飛び回っているようだった。

 しかも彼女のお父さんは会計士、お母さんは華道の先生という完璧なお嬢様で、僕にしてみればまさに高嶺の花だった。

 それに比べて当時の僕は貧相な痩せた体に眼鏡顔で、運動は全くダメ。誰かと話すのもダメ。いわゆるコミュ障だった。何をするにも周りの目が気になり、つい逃げてしまう僕だったからだ。
 持って生まれた人並み外れた内気な性格のせいかもしれない。今から思うと、よくイジメの対象にならなかったものだと、胸をなでおろしている。
 さらに言えば、僕の父はしがない公務員で母は専業主婦、早川さんと比べると、何から何まで月とスッポンだった。

 早川さんは陸上部に所属していて短距離の選手だった。練習の時、カモシカのようにスラリと伸びた足で大地を蹴る姿を、僕はいつも遠くから見ているだけだった。

 そんな早川さんと言葉を交わすなど、僕には恐ろしくて出来なかった。声を掛けた途端、汚い物でも見るような目をされるような気がして、もしそうなったら僕は一気に奈落の底に突き落とされることになる。
 それよりなにより、内気な僕にそんな大それたことなど出来るはずがなかった。言葉は交わさなくても、彼女を視界に入れられただけで幸せな気分になれていた。

 女子の十六歳から十八歳は、男子が考える以上に変化は大きい。あっという間に大人の女性に成長してしまう。子供を産み育てるという大イベントを考えれば、生物学上この時期にそうでなければならない理由があるのかもしれないが、とにかく早川さんも二年生、三年生と進むうちにどんどん変化して行った。
 こんな言い方をしていると、彼女の毎日をずっと監視していたストーカーにも聞こえるかもしれないが、決してそうではなかった……と、思う。

 彼女の後を密かに追いかけてみたり、名前を書かずに手紙をポストに入れてみたりなど、ストーカーとしての定番行為はやったことはないし、やろうと思ったこともない。もちろん無言電話やこれみよがしのプレゼントなどを送ったこともない。健全な恋愛だと自分では思っている。

 ただ……彼女を見つめる僕の中に、もし彼女に何か禍が降りかかるのなら、何とかして守ってあげたい。そしてその役割は僕しかいないのではないかと、柄にもなく妙な正義感が生まれていたのは事実だ。
初めて恋をした僕が、恋愛感情の中で何が正しくて何が歪んでいるのかなど分かるはずもなく。そんな感情を持つことはごく普通のことなのだと思った。

 とにかくそんな訳で、僕は早川さんの変化をずっと眺め続けた。何しろ一年の頃のあの『可愛い』は二年の夏休みが明ける頃には薄れてしまい、代わりに大人の女性を思わすフェロモンが漂いだしたのである。
 廊下に落ちた消しゴムを拾う姿だけで、僕の心臓は高鳴った。膝を折り、前かがみになるちょっとした仕草一つとっても、『少女』ではなく『女』の色気を感じさせたのである。
 無論これは僕が勝手に思っていたことなのだが、そんな風に彼女を意識しだすとますます近寄りがたくなり、僕にしてみれば彼女はいつの間にか女神に近い存在になっていた。

 そこまでの思いがあったにも関わらず、結局僕は早川さんを遠くから眺めるだけで三年間を過ごしてしまった。一言も会話を交わすこともなく、一瞬でも目を合わせることもなく僕の初恋は終わったのだった。
 卒業式の後、級友達に囲まれて談笑する早川さんを見て、僕は思った。これで良かったのだと。早川さんは僕よりもっと背が高くて、顔も僕より比較にならないほどイケメンの男と付き合うのがふさわしいのである。
 不思議と後悔はしなかった。早川さんとたった三年間だったけど、同じ空間で過ごせたことは僕の人生の中で輝く思い出になると思った。これからは卒業アルバムの中でしか会えなくなるが、僕にはそれで十分に思えた。
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