第17話 異常な世界

文字数 1,888文字

 それから早川さんは僕の腕を取るとマンションに入り、建物と同じく古びたエレベーターで五階まで上がった。そして早川さんはもう何度も来ているかのように僕の先を歩き、ある部屋の前で止まった。

「ここよ」

 何事も無く指差す早川さんだったが、僕はというと、エレベーターに乗った頃から心拍数が上って来ており、今は百メートルを全力ダッシュした後のように、とてつもなく速くなっている。
 握りしめた手の中は汗でじっとりしており、その割には口の中はカラカラである。無意識に噛んでいる唇は今にも切れそうだった。

 早川さんはインターホン越しに言った。

「飛鳥です」

『飛鳥』、それは紛れもなく早川さんの芸名である。ということは、いよいよ早川さんが『白鳥飛鳥』という女優になり替わる時が来たということである。僕の緊張感は最高潮まで高まっていた。

「あいよぅ」

 僕が極限まで緊張しているのとは裏腹に、インターホンから聞こえて来たのは、随分と間延びした男の声だった。
 ドアの向こうで鍵を外す音が聞こえたかと思うと、ドアが半分開いた。中から顔を出したのは黒のシャツに黒のパンツ、黒のサングラスをかけた男だった。

「お待たせ。早かったな」

 サングラスで目元の表情までは分からないが、声の質や響きから僕の父親ぐらいの年に思えた。

「そうですか? 時間通りに来たつもりですけど」

 早川さんはそう言うと僕の方を振り向いて言った。

「監督、この人がこの前お願いした人です」

 監督と呼ばれた男は「ふぅん」と言いながら、僕の姿を頭の上からつま先までじろりと見降ろした。
「まぁ、飛鳥がどうしてもって言うんだから、こっちは何も言わないけど……しっかし、飛鳥も変わっているな。何も自分の裸を見せることもないだろうに」

 僕は監督の「裸」という言葉に敏感に反応していた。普段の仕事の中では滅多に使わない単語だからである。もちろん僕の会社は物流会社なので、「商品を裸にしろ」とか「裸のまま棚に積め」などと使うことはあるが、当然ながら意味は全く違う。

 僕はぎこちなく頭を下げていた。

「すいません。お邪魔します」
「あぁ、とにかく入って」

 僕と早川さんは監督に促されるように中に入るのだった。


 僕達が入った部屋は外観から思えるほど傷みは激しくなく、逆に洒落た感じがする部屋だった。しかも間取りからすると3LDKなのだが、その一部屋一部屋が広かった。

 三つある部屋の一つは襖で仕切られている所から見てどうやら和室のようで、出演者が着替えたりするのか、入り口には『出入り注意』と書かれたメモが貼られていた。
 もう一つの部屋は洋室で、そこで打ち合わせなどをするのか、テーブルの上には何冊かのファイルと何事かが走り書きされたレポート用紙が散らばっていた。
 そして最後の部屋はドアの隙間から見える部分から考えると寝室のようで、派手な赤いベッドカバーが見えていた。

 僕はその中の打ち合わせ用の部屋で待つように指示され、部屋の隅にあった長いソファーに身を小さくして座った。
 早川さんは慣れたように襖の部屋の前まで行くと僕に向かって「じゃあ、後でね」などと言って、笑って部屋の中に入って行った。

 僕は、もの凄い場違い感に苛まれながら、おどおどと部屋の中を見まわした。

 今日の撮影はキッチンから始まるようで、そこには丸い大きなレフ板と畳半分ほどの四角いレフ板が一枚ずつセットされて明るく照らされていた。そしてその二枚のレフ板の間には三脚があって、家庭用の物よりは大きいのだが、こんなプロの撮影には少々貧弱思えるデジタルカメラが備え付けられていた。

 僕はイメージとしては薄暗い陰気な場所で撮影されるものだと思っていたのだが、想像以上に明るい場所であることに驚いていた。早川さんはこんな明るい所で裸になるのだろうか。僕には早川さんの気持ちが全く分からなかった。

 さっきからレフ板を調節しているのは濃い紫のジャンパーを着た茶髪の男で、僕と同じ年頃に見える。彼はこの仕事は長いのか、傍に部外者である僕がいるにもかかわらず、全く気にせず動き回っている。
 他にも黒の半袖Tシャツを着た監督ほどの年に見える男が、しきりとハンディカメラを覗きこんでいる。おそらく彼がこのカメラの担当なのだろう。

 そして最後に明らかに僕より年上に見える女性が一人、しきりと時計を気にしながらスマホを何度も覗き込んでいた。この女性は監督と同じく黒のシャツに黒のパンツで黒ずくめである。ただ、肩より少し長い髪は茶髪で、根元の部分の黒がかなり多くなっているのが気になる。それが何とも言えない熟女感を漂わせていた。
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