夕焼けの三日月-2

文字数 1,379文字

 ワンフロアをまるまる使った、この贅沢な部屋の中には、リビングが一つ、応接室が一つ、寝室が二つ、トイレが二つ、浴室が一つある。フユトが主に使うのは、リビングと主寝室、主寝室近くの浴室とトイレくらいなので、他には入ったことがない。所有者が不在の間に探索するほど、好奇心もない。

 浴槽に湯を張っている間、リビングで勝手に珈琲を淹れて飲み、使ったカップを適当な棚に置く。頃合いを見て浴室へ行き、汗で湿った服を脱衣場で脱ぎ捨て、シャワーのコックを捻った。熱い湯で全身を濡らし、頭をわしわしと雑に洗ったあとは、しばらく無心でシャワーを浴びる。満足したところでコックを捻り、ジャクジー付きのバスタブに浸かりながらのんびりするのが、フユトの基本的なルーティンだった。

 訓練場を出る間際、仕事に向かうシギのやり取りを何となく聞いていた限り、今夜は戻るのが難しそうだ。それは別に構わないが、あんなことがあったあとで夜遊びするのも憚られるから、自主的に謹慎しているが、そろそろ子犬バーテンをからかいに行きたくなってはいる。

 傷が治るまで、大事な仕事以外、シギは過保護にも、ほとんどフユトと過ごしていた。一晩いないのは久しぶりで、この退屈をどうやって潰そうか、考えるのも億劫になる。

 ──過保護、というか何と言うか。

 あれ以来、シギは何処かが変わってしまった。嫌な方向ではないが、たまに重すぎて逃げ出したくなる程度には、大事にしてくれるようになった。元からそんな気質は見え隠れしていたものの、嫉妬深いし疑り深い、そしてどこまでも執着する。急に本性を剥き出しにされた気分だ。

 たぶん、それを子犬バーテンやその他、シギを知る人物に確認したところで、そんなことはないと思う、と一言で片付けられる気がする。何せ、彼らのやり取りを断片的に盗み聞く限り、シギはフユトのよく知る態度、そのままなのだから。

 嬉しいとは思わないが、どうにもむず痒くて落ち着かない。今まで通りにしてくれと言ったところで、きっと本人に自覚はないし、わざと惚けている風でもないから、何と伝えたものだろう。

 傷が完全に塞がってからは、そこそこの割合でそういうこともしているが、つらくてトぶことはあっても悦過ぎてトんだことはかつてないので、それも何となく収まりが悪い。そもそも、見られる表情の種類が違う。トぶときはどちらも白目を剥くだろうが、あらゆる体液を垂れ流しながら、顔が緩んでいるか険しいかでは、見られる恥ずかしさも桁違いなのに。

「……言い訳できねーんだよなぁ」

 ぼやいて、フユトは風呂の中に、ずるずると頭を沈めた。

 逆上せる前に浴室を出て、清潔なバスタオルで体を拭き、新しいバスタオルで髪を拭く。適当にがしがしと水気を取ったら、バスタオルもその辺りに投げて、主寝室へ向かう。

 毎日取り替えられる清潔なシーツに包まり、ふかふかの枕に顔を埋めて、うつ伏せた。

 甘やかされるのは嫌いじゃない。哀願するまで焦らされ、失神寸前まで喉を酷使され、管理されたまま放置されることを考えれば、それよりはいい。ただ、本音を言わない限り酷くはしてもらえないのもまた、少し切ないと思い始めるのは、毒されている証拠だろう。

 扱い方が違うだけで、理性から何から全て溶け出してしまうのは変わらないのだから、プロセスにこだわらなければ満足ではある。
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